- 長い長い編集後記の話 (筑紫磐井)
藤井貞和の『東歌篇――異なる声 独吟千句』(2011年9月反抗社出版刊)が出た。冒頭を見てみると、
少年
幼くて、われ走るなり。きれぎれに
返る記憶の少年の夏
特集のページ、原子の力もて
何をなせとか―― ありし その記事
回し読みする「少年」誌、わが記憶
汚れていたる緑の表紙
はるかなるわれら 科学の夢を継ぐ
明日と思いき。はかなきことか
十年をわずかに越えつ。人類の
核分裂を手に入れてより
いもうとのウラン、名前に刻みつつ
あやうき虚偽となる、半世紀
あこがれの未来を、ラララ科学の子
戦後に誇る 産業ののち
電化こそ―― 戦後のあかし。灯る 見え
稲沢駅の電気機関車
(以下略)
なんだ、これは連歌ではないか。575、77――が1000行にわたって続く、中世以来の連歌の形式ではないか。
すでに藤井貞和は、「詩客」6月3日号で「旋頭歌 まがつ火ノート」を発表している。
マイ・バック・ページ、背後に 広がる画面
見うしないながら、たしかに 捲(=めく)られていた
立ち上がるうたのかずかず、裂かれるノート
ひとひらをきみにささげて、声はなかった
(以下略)
これは連歌形式ではなくて、柿本人麻呂が深く関与した、より古い歌体の旋頭歌で、577、577――と続いてゆく。連歌と違ってその連鎖は必然的ではなく、奇数行と偶数行の結合がよほど強い歌体だ(連歌は、行ごとの結合はどの行であっても平等である)。
しかしこうした古い定型形式が、福島原発事故でとりわけ選択されたと言うことに藤井の思想性を感じる。形式があるからその形式で詠む(俳人が俳句で詠む、時に長谷川櫂のように俳人が短歌で詠むと言う混乱もあるが)と言うのとは根本的に違うからである。
まず連歌についてみてみよう。これから詩客で始まる「連詩」を見れば分かるように、連詩(その母胎となる連歌、連句でもそうだが)の各1行は独立し、あるいは1行ごとに批判し合い、それぞれ独自の思想をもつ。さばき手はそれを判定するのが主たる役割である。輪廻・観音開き(戻り)があってはならないのだ。これに対し、藤井の連歌の各行はアマルガムとなっている。
では旋頭歌は?旋頭歌も、
水門(みなと)の葦の末(うら)葉を誰か手折りし
我が背子が振る手を見むと我ぞ手折りし(万葉集巻7)
のように片歌(577)を合体した唱和の歌であり、男と女の歌。結合がよほど強いといっても、男の心理と女の心理ほどの違いがあったのである。だから連歌の発生に、筑波の道、至尊と下僕が語り合う、
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる 日本武尊
かがなべて夜には九夜日には十日を 火ともしの翁
という旋頭歌形式の連歌であったという伝説が残っているほどに連歌と旋頭歌の相性はよいものであった。それは思想の対立、断絶が、他の詩歌形式(長歌、短歌など)と違って顕著にうかがえるからである。
(因みにこれと対蹠的なのが和讃の形式だ。75,75――の反復は、日本の長編歌の基本となり多くの作品が生まれた(典型的なのが浄瑠璃)。そして明治になって西欧から流入した「詩」が採用したのが和讃の形式で、島崎藤村以来、新体詩の名称で長く近代日本の詩を規定した。何故か?それは、和讃形式は断絶がないからだ。延々といくらでも長く、輪廻や後戻りできる詩型だからなのだ。西欧の詩にとって便利この上ない)
話をもどして、こうした、断絶を免れない連歌や旋頭歌のような詩歌形式を選んで、単一の思想を述べることは危険に違いない。詩歌の形式が、主人公の思想を分断する可能性を常に持っているからである。軟弱な思想は、旋頭歌形式、連歌形式によってばらばらとされてしまうであろう。
しかし強いてそうした形式を選んだところに藤井の思惑もあったのではないか。藤井の思想は詩歌形式によって分断され、矛盾を含んだ思想要素として開陳される。これらの要素を組み上げるのは読者。藤井自身、現代人としての思想の矛盾を免れるはずもない。そこに藤井の思惑もある。
*
そんな一例を、『東歌篇――異なる声』で考えてみよう。
祈念
われらありて、 人力発電所を発明し
子々孫々へ電気を送れ
砂の底シリア。リビアの若きらも
戦火を停めて、発電をなせ
(以下略)
突然舞台はシリア、リビアに飛ぶ。
冒頭に掲げた「少年」の冒頭に、懐かしい鉄腕アトムの映像が浮かび上がる。ウランと名付けられた妹がかわいそう。しかし、妹ではなくて、ウラン自身を考えてみたい。ウラン238はビッグバーンの後、超新星合成により発生したものだ。したがって彼らは人類より古い地球の居住者だ。ウラン(妹)もかわいそうだが、ウラン(238)もかわいそうだ。物質に悪などないからだ。
人類にとって悪は何なのだろう。無限のエネルギーの需要を作り出したことによって、ウランは地表に登場した。豊かな生活、快適な暮らし、安全な食品、病気の根絶、寿命の延長、新生児死亡の減少、高度の教育、災害の予防、自然豊かなふるさと、国際化、我が家の平和、老後の安心、地域の振興、夫婦の濃密な愛情、子供への不憫さ・・・これらが無限のエネルギーの需要を作り出す。
無限のエネルギーの需要は産油国やその周辺で別の悲劇を生む。原子力事故とアラブにおける富の偏在・差別、――無限のエネルギーの需要という「貪欲」がこの2つを結び付ける。いやそうではあるまい、我々が幸福と考える、上に掲げたような欲望が、ありとあらゆる地獄を作りだす。『東歌篇――異なる声』の後半に掲げられているのは地獄絵図だ。それも人間が生きている限り必ず生まれる地獄である。
再び戻って「旋頭歌 まがつ火ノート」で、藤井は旋頭歌をもって575に言及する。
五七五、俳句の友よ。喪にあらがって
安易なる喪をいう向きと、句もて、たたかえ
俳句の友は戦っているのだろうか。
『東歌篇――異なる声』はさらに言う。今度は、詩も、俳句も問われている。
涼しきや
ゆくは―― さびし 山河も虹もひといろに
かかる時かも。わが送ること
思想の詩 終わる六月、きみがゆく
終わりしのちになお詩は―― あるか
水売りの声も―― 届かぬ幽境へ
逝きし 思えば、夏近づきぬ
炎天に苦しむことも―― なくなろう
海路ゆかしき 筵道を逝く
五七五 終るか―― きみの初夏に
なげうつ水を受け止めていよ
幽明のさかい越えゆくは―― 涼しきや
あかね色して海の衰え
衰うることなき 燃ゆる五七五
櫛風沐雨 きみの口癖
壊滅を見届けて 清水昶ゆく
悔恨なしとわれ言えなくに
これらの詩に圧倒され、恥じらいつつ、では俳句に出来ることは何であろうか、と考える。藤井のように詩型を選択する余地はない。されば、我々にできることは――長い遠大な前書きを書くことしかないのではないか、と思う。