ブランコ軋むため傷つく寒き駅裏も 『蛇』
このブランコには春の雰囲気は感じられない。さむざむとした冬の風景、それも駅裏。場末も場末。兜子の詠む場末の風景には傷ついたり悲鳴を上げたり(軋む)する人や物が登場する。それは恐らく敗戦という重大な体験と無縁ではなかろう。日本中が等しく経験した筈の、しかしまだ10年しか経っていないというのに早くも多くの人が忘れ去ろうとしている、あの敗戦を兜子は決して忘れていないし、心に深い傷が癒えないまま残っているのだ。
この句を解釈してゆくと引っかかるのが「軋むため傷つく」という表現。軋むのはもちろんブランコ。本来ならば傷つくから軋むのだろうが敢えてそれを逆転させ「軋むため」傷ついたのだと言い切る。そこに俳が生まれ詩が生まれた。或いは兜子自身もおのれが傷ついたのは軋むため、俳句を表現するためと思っていたのかもしれない。
それにしても「軋む」「傷つく」「寒き」「裏」と負の表現をこれでもかと畳み掛ける。こういうことは昨今では余りやらない、やると必ずどの句会にもしつこいとか即き過ぎと言い出す御仁がいるものだ。当時の兜子の心象風景を表わすにはこれだけの言葉を要したということか。この句は昭和53年3月号の『俳句研究』掲載の兜子自薦200句にも採られているからお気に入りだったのだろう。
句末の「も」が気にかかる。ブランコも駅裏も→傷つくと返るのか、ブランコのある公園も駅裏もということなのか。そもそもこのブランコは駅裏にあるのか、たぶんそうだろう。だとすれば前者は言っても仕方ないこと、後者だと公園と駅裏が別の場所のようになってしまう。まあ、ここはあまり重い「も」と取らずに軽く流して終わった…くらいに受け止めておこう。