赤い新撰 バケツ 「御中虫の百句」 / 四ッ谷龍

「御中虫の百句」 (四ッ谷龍/選) 一覧

人間を知りたければ御中虫を読め

一、スイカの価値
私はスイカを愛用しています。西瓜じゃないですよ。JR東日本が発行する交通系カードの愛称がSuicaなんです。電車に乗るだけではなく、新聞を買うのも、コンビニで支払うのも、牛丼屋で食券を手に入れるもの、みんなスイカですませます。関西では同じようなカードを、イコカと名づけているらしいですね。

薄くて軽くてどこへでも持っていけて、万一失くしても上限一万円程度の損。スイカを持っているとお金というものから解放されて、自由になったような気分です。

御中虫の次の句を読んでいると、なぜかこのスイカのことを連想します。

歩いてかね?歩いて四月が来るのかね?

四月が歩いてくるという、季節を擬人化した俳句です。時間を擬人化する手法というのは古来あるもので、たとえば高浜虚子の次の句などは代表的なものでしょう。

年を以て巨人としたり歩み去る

虚子の句はとても堂々としていて立派です。まるでピカピカの一万円紙幣みたいに立派です。お金を例に出したのは、別に風刺ではありません。御中虫の「四月」が、スイカみたいにぺらぺらで軽いとするならば、虚子の「年去る」は高額のお札みたいに存在感があるのです。

 虚子の「年去る」という季語は、「一年間の出来事に対し心の決算をつけて新しい年に向かう」という心持を象徴しています。そういうバックグラウンドを感じさせるから存在感があるのです。では御中虫の「四月」は何を象徴しているのでしょうか。

 四月といえば、入学式。新しい人生のスタート。桜の花。でもこの句では、季語がそんなものをまったく象徴していないのではないでしょうか。それはただの「シ・ガ・ツ」であり、四番目の月で、それだけなのではないでしょうか。ペラペラです。スイカは、チャージされてはじめて価値をもつけれども、それ自体は樹脂の板にすぎません。そのように、この四月はペラペラに四月なのです。

御中虫には次のような句もあります。

あたしは単なる代わりでせうか、紙幣のやうに?

「紙屑のように捨てられる」という言い方がありますが、ここでは紙幣が「価値がないもの」の代名詞になっています。お札が地面に落ちていたら私なら拾いに行きますが・・・・・・というのは冗談ですけれども、御中虫にとって「紙幣という価値のシンボル」が無意味なものの代名詞として使われているのは興味深いことです。

 ここで少しだけお金の話をしたいのですけれども、日本で貨幣というものが広く流通するようになったのは、今、大河ドラマで主人公をやっている平清盛が、中国から大量の「宋銭」を輸入して、それで経済を牛耳ろうとしたのがはじまりのようです。貨幣は14世紀、つまり室町時代には、日本に十分定着したらしい。

貨幣経済はこれ以後、20世紀まで猛威をふるうのですが、世紀末から21世紀にかけて、この仕組みに大変化が起きはじめたらしいのです。貨幣が数字としての通貨に化けて、ダイナミックに流動しはじめたからです。

 たとえば、3億円を移動させるとして、一万円札を3万枚ケースに詰めて運ぼうとしたらたいへんです。途中で警察官に変装した白バイ男が現れて、騙し取ろうとするかもしれません。ところが今では、ボタン一つで地球の裏側へ3億円を送金することが可能なのです。

こうなると、お札やコインのありがたみというのはどうしても薄れてきます。お金はカードやディスクに書き込まれたデータ以上のものではないからです。実際、お金持ちほど現金を持ち歩かず、クレジットカードや小切手で支払いを済ませるものです。

そつくりだハイパー・インフレーションとわたし

自分の躁状態をハイパー・インフレーション(お金が紙屑同然の低価値になること)に喩えた、御中虫のこの句は、貨幣の価値が脅かされた今の時代の不安定な精神状態を非常にうまく表現しているように思います。ユーロが暴落したり、コツコツ納めた年金が消えてしまったり、優良企業がある日経営不振になったり、お金をめぐる世の中の動きは激烈をきわめています。この句は、豊かさのシンボルとしての貨幣の価値が揺らいで、通貨が情報化していく21世紀の気分を、的確に代弁しているのではないでしょうか。

一万円札と、一万円をチャージしたスイカとでは、価値は一緒です。かつては、とても大事なものであるかのように立派に印刷されたお札でなければ、偽札の恐れもあるし不安だったのですが、今は価値さえ保証されれば見てくれはどうでもいい時代になってきたのです。お札がこの世からなくなってしまうとそれはそれで不便なように、虚子の季語のような存在感が俳句からすべて消えることはないでしょうが、しかしそのような重さをとっぱらってしまった御中虫の句の現代性は、多くの人にとってスイカのように心地よいものとして感じられるはずです。

二、異化効果
 御中虫の作品には無季の俳句が非常に多い。また、有季でも季語の使いかたがたいへん独創的です。

 まずは無季の句から。

暗がりで暗がつてゐる男かな
別れたら軽くなった軽いまゝ泣いた
花摘んで花摘んで花摘んだ指

見てのとおり、彼女の無季の句では「同じ言葉の反復」がしばしば重要な役割を果たしていることがわかると思います。

毎度おさわがせしますと言って本当にうるさいときた

これも「おさわがせ」と「うるさい」という似た単語を使っていて、一種の反復と言えるでしょう。

ここでたいせつなことは、繰り返される単語は最初に使うときと二回目以降に使われるときではニュアンスがずれているということです。「暗がりで」の句、最初の「暗がり」は単に物陰で暗いという事実の表現ですが、次の「暗がつてゐる」は男の心理を表す表現になっています。「別れたら」の句、最初の「軽くなった」は自由になったというニュアンス、次の「軽いまゝ」は孤独で淋しいという響きに変わります。「花摘んで」の句、最初の「花摘んで」は可憐なしぐさに見えますが、三回繰り返されると偏執的かつ嗜虐的な身振りと思わざるをえないでしょう。「毎度おさわがせします」は丁寧なお詫びの表現ですが、「本当にうるさいときた」はただひたすら迷惑であるという決めつけになります。

ある表現を、元々の使いかたとまったく違う場面で使う方法を、劇作家のブレヒトは「異化効果」と呼びました。私は演劇に詳しくないので詳細に解説はできませんが、辞書によれば異化効果は「すでに知っていると思われているものを未知のものに変えて、驚きを生みだす」というような説明が見られます。一つの表現を最初と最後で違う情景へすりかえて読者をびっくりさせる、それによってことばの意味合いを転倒させる御中虫の方法は、ブレヒトに通じるところがあるのではないでしょうか。

俳句のようなきわめて短い詩形で、「季語」というシンボル(象徴)を使用しないのはなかなかむずかしいことです。季語はいろいろなニュアンスを象徴しています。そのことは「歳時記」の季語の解説や例句を読めばだいたい誰にでも理解できます。季語を俳句に入れれば、それによって象徴される雰囲気(本意)を暗示することができます。だから少ないことばで多くの感情を伝達するには非常に便利な道具なのです。いっぽう無季の句はそのような手段を放棄するわけですから、季語の象徴主義に代わる手段を見つける必要があるのです。

異化効果というエンジンで無季俳句を推進する手法は、御中虫がはじめて発明したとは言えないかもしれませんが、少なくとも彼女は極端なかたちでこの方法を駆使することに成功した作家だと言えるでしょう。

異化効果は、彼女の有季の句でも盛んに活用されます。それは、季語自体を本来の象徴するものとはまったく違う情景に放りこんでしまうというやりかたによってです。

鉄工場に立てかけられた虹の鋳型

この句で、虹はハカナサの象徴でも、希望や美のシンボルでもありません。鉄工場で、鋳型に金属を流し込んで製造される物質として想像されています。虹の本意を強烈に切り捨てているのです。

コットン25レーヨン75の春雲

 繊維の混紡比率をアラビア数字で書くことで、春の綿雲のゆったりしたふわふわ感はたちまち消えて、ユーモラスで軽快な笑いが浮かんでしまう。

水泳女(およぎめ)のひざから下は烏賊になり

この句は《泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ 芝不器男》のパロディかと思うのですが、「泳ぎ女」を「水泳女」に書き換えている時点で、「およぎめ」の本意であった初々しいエロティシズムは全否定され、あられもないスポーツ女子に変貌しています。しかも下半身は軟体動物にされている。

 俳諧というものは、そもそも和歌のアンチテーゼとして異化効果を活用する形式だったのではないでしょうか。古典をパロディ化して笑いのめした榎本其角などはその代表選手でした。笑い、皮肉、飛躍は俳諧の大事な武器だったのです。近代になってその力が徐々に衰えていったのを、御中虫が俄然現代において復活させた、というように私には思えます。

三、音声効果、解体効果
前章では、御中虫がことばの反復によって異化効果を作り出しているということを述べましたが、彼女の繰り返しは違う意味をもつ場合もあります。

ツイッツイッチィー。夜明けの唄は。ツイッツイッチィー。

 夜明けの鳥のさえずりを「ツイッツイッチィー」とオノマトペアで表現したところが非常に巧妙です。これは異化効果ではなく、ひたすら心地よい音声効果です。読んでいるこちらも「ツイッツイッチィー、ツイッツイッチィー」と口ずさみたくなるほどです。「八・七・八」の音律が精妙なバランスを作っています。

とこぱったむ。とこぱったむ。とことつん雨。

これは雨だれ。「ぽたぽた」とか「トントン」などといった平凡な描写ではなく、「とこぱったむ。とこぱったむ。とことつん」と独創的なオノマトペアを発明しています。最初の二回の繰り返しで雨だれの単調な繰り返しを示し、「とことつん」と変化することで滴りのテンポがずれたことを表しています。まことに魔術的な手腕です。

ペットボトルカルピスたぴてぷ夏の光

「ペットボトル」や「カルピス」は、日本語としての歴史が浅く、後の時代に残らない単語だという批判をする人もいるかもしれません。しかし「ペットボトルカルピスたぴてぷ」というP音、R音を駆使した音響によって、透明なボトルに乳酸飲料がたぷたぷ揺れているさまがあまりにも鮮やかに伝わってくるし、また夏の光に液体が輝くさまもあまりにもリアルに目に浮かんできます。ことばの歴史にばかり囚われて、響きと光の美しさを見失うのは、あまりにももったいないことです。

これらの句の音声はとても美しく、私は御中虫を「音響の鬼才」と呼ぶことになんのためらいを持ちません。

以上のような手法と、共通するとも言えるし少し違うとも思える繰り返しの使いかたに、次のようなものがあります。

実はルピナスあたしねルピナス躁ルピなのナス
春のバケツ冬のバケツと並びけり
ああああ心臓ああああ手足ああああ満月

最初の句、「実はあたしね躁なの」という告白(?)がばらばらにされて、間に「ルピナス」の花が挿入され、最後はルピナス自体も解体されてしまうという、非常に凝った作です。躁の病んだ心が、ルピナスのあざやかな色と一体化していくようで、哀しさを感じさますけれども、しかしことばが解体されることで、べたべたしたセンチメンタリズムからは抜け出しています。こういう、心情を突き放すような強い切断を示す反復を「解体の反復」と呼びたいと思います。

二句目、「春のバケツ」と言われると園芸の種まきを想像しそうですが、続いて「冬のバケツ」と言われると「?」となってしまいます。そう言われてみると、春とか冬とかいう区別自体が人間の思いこみで、バケツはバケツでしかないのです。そのようにことばに埋められたヒトの先入観を断ち切ってしまおうというのがこの反復の意味合いです。

三句目、「ああああ」というのは何でしょう。とりようによっては悲鳴のようにも聞こえますが、私はもっと軽く、小包の中に押しこまれたプチプチみたいなものだと受けとります。「心臓・手足・満月」と連続して書くと重々しく、このヒト病気なんだろうか、なんだか厳しい意味があるんだろうかという気がしてしまいますが、あいだに「ああああ」が緩衝材として入ると、そういういかめしさは解体されて、読んでいてズッコケておかしくなります。

御中虫の俳句には、つらくて苦しいものもありますけれど、同時に心情をぷっちんと切り捨てるユーモラスな句がたくさん並んでいます。

園丁は早死にします薔薇ぱちん

切られたのは薔薇なのに、早死にしてしまうのは園丁だというすれ違いがおかしくて、おかしくて、私はこの句が大好きです。そして「ぱちん」という心情切断が、滑稽感を出すのにとてもよく効いています。

四、虫語
さてここで、旧仮名をわざと間違って使うという、一部では非常に評判が悪い、御中虫のいわゆる「虫語」というスタイルについても触れておきたいと思います。

 彼女の作品は基本的には歴史的仮名遣いを使用していますが、現代仮名遣いを用いたものも相当あります。

震えてもええんやでと北風が云う
遅れてきてぶっきらぼうに梨を食う

 それにとどまらず、旧仮名遣いに独自の改変を加えた「虫語」までも登場するのです。

たんぽぽみたひに愛されたくてしゃがんでみた
考え方の方向変えてみやふ凪

言うまでもなく、旧仮名なら前者は「みたいに」、後者は「変へてみよう」と書くところです。

「虫語」は日本語を乱す許しがたい行為であるとして、一部の人たちは囂々たる非難の声を上げているのですが、さあどうでしょうか。

考え方の方向変えてみやふ凪

の句を例に見てみましょう。「考え方の方向を変える」というのは、まるで自己啓発本の章題みたいな、前向きで機能主義的な表現です。それに対して「凪」は自然現象を扱った語で、ゆったりとした響きがあります。まったく食い違った題材同士がトツゼン衝突するのが、この句の面白さです。異化効果の一種と言えます。

 これを新仮名で、

考え方の方向変えてみよう凪

とするとどうなるでしょう。どうしても、「考え方の方向変えてみよう」の機能主義的な部分が新仮名で補強されてしまって、「凪」が負けるような感じがします。

 これを避けるために、普通の旧仮名で

考え方の方向変へてみよう凪

でも良いのですが、やはり旧仮名だとおっとりした古めかしい気分が支配するので、二物衝撃のインパクトは弱まってしまう。ここは

もうひと息ダメ押しして、ぶっこわれた感じ、安っぽくキッチュな感じを出したい。そうやって生み出されたのが、いわゆる「虫語」なのではないかと思っています。

 できあいの気分をばらばらにして消してしまうという意味で、虫語は前章に述べた「解体作用」の一種でもあると思います。このような仮名遣いは、センスの良さが要求されるものですから、誰にでも勧めるというわけにいきませんが、御中虫の場合には異化効果や解体作用とつながる一貫したポリシーがあっての使用であり、これを私は支持したいと思います。

五、人間を知りたければ御中虫を読め
 今回の企画で、私は御中虫から送られてきた近作六百数十句から、百句を選ぶ作業をやりました。不思議なことですが、彼女の俳句を読んでいるうちに、何だかそれらは自分が作った作品であるような感じがしてくるのでした。ときどき頭を振って、作品と自分との間に距離をとり冷静になるよう、落ち着かせる必要があったほどでした。

 ふつう、他人の句集を読んでいてまず感じるのは、俳句という形式のことです。この人はどんな季語を選んでいるのだろう、切れ字の使いかたはどんな具合だろう、どういう俳人の影響を受けているのだろう、等々です。ところが御中虫の句を読んでまず思うのは、「自分の前にひとりの人間がいる」ということです。そこにはまざまざと人の息吹が感じられます。それに気をとられて、季語のことも切れ字のことも忘れてしまうので、もう、自分が読んでいるのが俳句かどうかすら、どうでもよくなってしまう感じです。

卵さん割りますよ初春の朝

私はよく朝食で「生卵ぶっかけご飯」を食べますけれど、卵を割るときには、ちゃんと割れてよ、と祈りながら、卵をカチっと鉢に当てる。まさにこの句のような感じです。事実を説明的に写生するのではなく、自分から卵に語りかけて割る「心の動き」を、ダイレクトにこちらの心根に届けるのです。

豆腐タテタテヨコヨコに切る小春かな

 この句を読んだ人は、自分自身の手のひらに豆腐が載っていて、それをタテタテヨコヨコに切っているような感じを持ってしまうのではないでしょうか。読み手は御中虫といっしょになって「タテタテヨコヨコ」と包丁を使っているのです。

落ちぶれたもんだよ昨日は肩に鳥さえ来たのに

と言われれば、まるでこちらも落ちぶれてしまったようにしょぼんとしてしまうし、

日曜日風船持って背伸びする

を読めば、自分の身体も風船にひっぱられて上に伸び上がるような気がする。

 御中虫という人には、一種異様なほど人を共感へと呼びこむ力があります。

 彼女はブログやツイッターで、日々のできごと、考えていること、描いた絵のコピー等々を大量に発信し続けています。それをフォローする人の数がたいへん多い。ツイートの内容には、とても洒落た鋭い指摘もあれば、シモネタ、エロネタ、他人への罵倒もあるけれど、それらがどれも生き生きと精彩を放って人間味を感じさせるのです。御中虫が語ることには偽善がありません。もう、あからさまなほどに、彼女は自分自身をことばで差し出すのです。

保護室の床広いなあ指で詩を書く

これは、彼女の心がちょっと苦しくなってしまって、リッチな広い部屋での休養を余儀なくされていた時期の俳句です。この句を読むと私はすこし泣いてしまいます。それは、一つには彼女の心情を思ってのことですけれども、もう一つは、「この気持ち、僕も知っているなあ」と感じるからです。孤独で打ち明ける相手がいない日と夜を、自分自身もどれほど過ごしてきたことでしょうか。

人間は、他人を必要とする動物です。世の中を捨てて隠棲することは可能ですけれども、孤独になったとしてもその人が社会的動物であることに変わりはありません。だから、孤独になったとき、人はもう一人の自分に向けて語りはじめます。語っても語りきれないことばは、詩となって指からこぼれていくでしょう。

人間とは何かを知りたければ、御中虫の俳句を読むとよいでしょう。そこであなたが出会うのは、自分自身にことばを送っているひとつの魂、その自分自身のさらに向こう側にいるすべての人間に向けてことばを送っている作家、そして彼女とともに宇宙へことばを届けようとするあなた自身の身体と心なのです。

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「超戦後俳句(御中虫,西村麒麟,筑紫磐井,四ッ谷龍)」の記事

  

One Response to “赤い新撰 バケツ 「御中虫の百句」 / 四ッ谷龍”


  1. 2012年5月31日 : spica - 俳句ウェブマガジン -
    on 5月 31st, 2012
    @

    […] http://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/cho_sengohaiku/2012-05-18-8737.html http://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/cho_sengohaiku/2012-05-18-8753.html […]

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