三番 革命
左持
革命やいま黄落のすさまじき 大高翔
右
左句の出典である『キリトリセン』は、写真やタイポグラフィーを華やかに駆使した、句集には珍しい作りの本だ。加えて、収録各句に短文を添えることで、俳句界外部の読者に自作を手渡そうとする工夫もなされている。掲句に添えられているのは、〈銀杏の散る、音も色も、くらくらするくらいに好き。嵐のような黄落に立ち会うと、胸がざわめく。わたしのなかで、何かが光を発する。〉との一文。学生運動世代の歌人藤原龍一郎(=俳人藤原月彦)はかつて掲句について、〈政治性とは無縁の単なる見たて〉として「革命」の語を使用していると批判し、〈色づいて落ちる黄落を革命と言いとめられては私の世代には辛過ぎる〉と述べていた。
藤原と世代を異にする評者には辛過ぎることはないものの、ある種の言葉をその歴史性に無頓着なまま使用する態度を物足りなく思う気分はある。対する右句は、最初から文明批評が先になっており、さしあたりその点の不満はない。「日本革命無し」の認識は、日本イデオロギー批判として全うすぎるほど全うというべきであろう。なお、右句の作者は、その著『現代俳句キーワード辞典』(一九九〇年 立風書房)で、「にっぽんかくめい【(日本革命)】」の項を立ててこの句を引き、〈天皇制という曖昧な幻想システムが作動する国において、ラディカルな思考を展開する人間は、きまって袋叩きに遭う。「濤の秀」が「霰」に「打」たれるように。〉と大変わかりやすい自解を施している。
両句は、抽象概念+自然の景物という同じ構成を採りながら、左句では抽象概念が自然の景物の比喩、右句では自然の景物が抽象概念の比喩と、ベクトルが逆向きになっているのも興味深い対照だ。さて、勝ち負けであるが、独創的ではないにせよ正鵠を射た文明批評を行なっている右句が、「革命」について何も考えていないらしい左句に圧勝しているとするのが当然のところ、果たしてそうか……と、つい余計なことを考えてしまったのは、たまたま必要があって四方田犬彦の『「かわいい」論』(二〇〇六年 ちくま新書)を再読したためだ。そこには(崩御間近の)昭和天皇でさえもが「かわいい」とみなされてしまうような、現代日本における「かわいい」の席捲ぶりを示す例がいろいろ示され、検証されているわけだが、この大高の句における「革命」も、昭和天皇における「かわいい」に類した、新たな価値付けの位相のもとにあるのではないか、と思えてきたのである。それを藤原のように、世代的経験を根拠に否定してしまうと(気持ちは良くわかるのですが)、何かを取り逃がしてしまう可能性がありそうだ。ちなみに、新たな価値付けといっても、価値付けの姿勢のありようとして見ると、極めて深い根を持ったものなのに違いない。かれこれ考え合わせると、日本イデオロギーを自覚的に外部から批判するのが右句、日本イデオロギーを無自覚にしかしある端的さを以って内部から生きているのが左句、なのではあるまいか(そういうことにしておく)。そんな次第で持。
季語 左=黄落(秋)/右=霰(冬)
作者紹介
- 大高翔(おおたか・しょう)
一九七七年生まれ。青柳志解樹に師事。二十歳までに『ひとりの聖域』『17文字の孤独』の二句集を出版。『キリトリセン』(二〇〇七年 求龍堂)は第三句集。
- 夏石番矢(なついし・ばんや)
一九五五年生まれ。著書多数。一九九八年、「吟遊」を創刊、二〇〇〇年、世界俳句協会を設立。掲句は、第一句集『猟常記』(一九八三年 静地社)より。
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