七番 といふところ (俳句の「型」研究 【2】)
左勝
蜘蛛青く生れ
右
滴りの明月谷といふところ 名取里美
「〇〇〇〇といふところ」というのも、折々に見かける俳句の型のひとつ。
左句の近露は、和歌山県田辺市にある地名。熊野参詣の巡礼路添いに御子神を祀った九十九王子のひとつ“近露王子”が、かつて鎮座していた。「ちかつゆ」という珍しい名の起こりも、熊野詣に関わるらしい。平安中期、花山院が熊野に向かう途上、当地で食事をしようとしたが箸がなかった。そこで萱の茎を折って箸にしたところ、そこから赤い汁が滴り落ちるのを見て「これは血か露か」と周囲に問うた。それがやがて「近露」という地名になったというのである。
右句の明月谷は、北鎌倉は明月川の流れに添って形成された谷(やつ)の名である。関東管領上杉氏の菩提寺で、あじさい寺として有名な明月院が所在する。作者は鎌倉在住らしいから、明月院あたりに気軽に吟行にでも出たものだろうか。
左右両句とも綺麗に纏められているが、優劣ははっきりしている。まず、両句の核である「近露」「明月谷」という地名――地名説話はさておいても前者には言葉それ自体にはっとするような新鮮さがあるのに対して、後者はごく普通に美しいという以上の感想を持ちにくい。さらにそれぞれの地名にかかる形容句も、「明月谷」に「滴りの」では飛躍に乏しい。対して、「近露」に「蜘蛛の子」の取り合わせはよりすぐれている上に、「青く」と色彩を点じて一句をいよいよ生動させている。どう見ても左勝。
季語 左=蜘蛛の子(夏)/右=滴り(夏)
作者紹介
- 辻桃子(つじ・ももこ)
一九四五年生まれ。「野の会」「俳句評論」「鷹」などを経て、一九八七年、「童子」を創刊主宰。掲句は、第十句集『饑童子』(二〇〇二年 沖積舎)所収。
- 名取里美(なとり・さとみ)
一九六一年生まれ。山口青邨、黒田杏子に師事。「藍生」所属。句集に『螢の木』『あかり』がある。掲句は、第三句集『家族』(二〇一〇年)所収。