十六番 お~いお茶
左
運動会ビリでもわが家の一等賞 外山一機
右
鶴帰る滋賀銀行の灯りけり 彌榮浩樹
左句は、「Ooi Ocha―お~いお茶を詠む/お~いお茶で詠む―」と題した一連より。掲句の他にも、
いつのまにパパの寝相を覚えたの
であるとか、
光る風まとって今日は入学式
といった調子で、計八句が並ぶ。「お~いお茶」俳句のパロディーというのでもなく、文体模写というのが適切かと思う。この作者はこれに先立つ一時期、近代俳句の万人周知の名句の“音”をそっくり敷き写しながら恣意的に分節化し、表記を改変して、原句と全く異なる“意味”を取り出すという荒技を展開していた。その実験シリーズにせよ、今回の「お~いお茶」の文体模写にせよ、形式主義の不毛な隘路を突き進んでいる感なきにしもあらず。しかしそれもこれも、形式という病を自覚的に病んでいるがゆえの振る舞いであることは間違いない。そこには、俳句を作るとは、想定された“俳句のようなもの”としての形式を敷き写し、模写する行為にすぎないのではないかという恐怖の感覚があるであろう。この作者は、ある時点でその恐怖を振り切らねばならないのであろうが、その恐怖は一面において彼の批評を起動させる原資ともなっているのである。
冒頭いきなり「お~いお茶」俳句の作例を羅列し、一方に子規や虚子の知名の句を並べて、〈大衆的営みとはレベルの異なるプロフェッショナルの領域があるはずだ〉というまことに退屈な仮定からその俳句原論を書き起こしてしまう右句の作者が、左句の作者が持つような形式への恐怖や、批評の悪意を全く欠いているであろうことは想像に難くない。生煮えのエリート意識に基づく思い込み(使命感?)で暴走したその論文「1%の俳句――一挙性・露呈性・写生」がなにがしの賞を取ったこと自体はどこにでもある誤配の一例に過ぎまいが、そのような誤配を可能にしたのが審査員たちの無知なのである以上、審査員の一人が選評で述べる、この論文によって「第二芸術」論が乗り越えられたなどという見解は、悪い冗談以前のグロテスクという他はない。
“形式の恩寵”なる言葉をときどき眼にすることがある。それはもしや、〈甘草の芽のとび/\のひとならび〉と〈階段が無くて海鼠の日暮かな〉をひとしなみに「写生」の名で受け取ってしまうような奇妙な俳句観の持ち主にも、たとえば右句のようなそこそこの作品が作れてしまうような事態を指すのであろうか。恩寵に包まれて自足する右句と、批評意識そのものを剥き出しに提示することで恩寵を拒否する左句。両者は同じ土俵に乗っておらず、ゲームは不成立。
季語 左=運動会(秋)/右=鶴帰る(春)
作者紹介
- 外山一機(とやま・かずき)
プロフィールは執筆者紹介欄参照。掲句は、「鬣 TATEGAMI」第三十八号(二〇一一年二月)より。
- 彌榮浩樹(みえ・こうき)
一九六五年生まれ。「銀化」所属。掲句は、第一句集『鶏』(二〇一〇年 ふらんす堂)所収。