残りの声 中本道代
樹々に囚われて
昏倒せよという命令を聞いた
地面は黒い蟻の領分で
彼らは飽きることなく
この世の意味を記録していく
(あなたの知らないあなたに出会おうとして *
わたしたちの盲目の記述が満ちていく
読むことができないものを読むことが
宇宙を沈黙に沈めていく
夢の中では
緑色のとろりとした水面に光が射していた
夢の外側にからだを向け
私は笑いかけていた
そのときわたしは何か言ったのだったか
その言葉はどこから来て
わたしという無人の国を通っていったのだろうか
* 吉田文憲「原子野」より
詩集「花と死王」思潮社 2008年
樹々が作者を囲んでいる。葉を繁らせ実をつける美しい世界の支柱だ。詩人にとってはまさに言葉に等しい。虜となり、昏倒しなければならない。対照的な存在が黒い蟻、実業に携わる人々だ。彼らは「この世の意味を記録していく」が、詩人は別の次元で意味を求めている。それは「読むことができないものを読む」という不可能性の使命であり、「あなたの知らないあなたに出会おう」とする冒険でもある。だが、盲目の記述者の運命をのがれることはできない。
夢は、詩人にとって救いになるだろうか?言葉が訪れて来た時、それに答え、生きる意味を抱きとることができるだろうか?だが、そこはすでに無人の国である。黒い蟻も詩人も、限りある生命は皆いなくなった。
言葉が通り過ぎていく。どれほど美しい歩行であることだろう。ふるいつきたいような虚無である。
作者にとって、この世は死が繁殖する場所であるようだ。詩集「花と死王」で、詩人はひそやかな一隅から立ち上がり、しなやかな身体で神秘の次元に入っていく。題名に象徴される通り、甘やかな望みと激しい恐れを同時に抱きながら。
この「残りの声」には、珍しく死者は登場しない。詩人が詩を書くことがテーマと思われるが、死に浸されたような読後感が残る。それが不思議でもあり、痺れるような快感でもある。