わたしを束ねないで 新川和江
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
戦後詩というとどうしても、男性中心になりがちだが、ここで女性の詩人を入れたい。まずはじめは新川和江。掲出したのは広く知られるあまりにも有名な詩だ。とはいえ、四連が強調され、女性詩という印象が強いのには、前から疑問を持っていった。確かに、四連は詩の構造からいっても中心であり、発表された時代背景から考えても、そう解釈されるのは無理もない。
1968年に刊行された『比喩ではなく』(地球社)に掲載されている。時代は2年後に万博を控えた、高度成長期のまっただなか。とはいえ、家庭でも職場でも、女性は結婚し子供を産むというのが、一般には当然と考えらていた。新川は39歳で母親であり、詩人としても円熟していた。四連はそんな新川にとっては、切実な思いだったろう。
とはいえ、詩は全体の構造として読まなければならない。まずこの詩で特徴的なのは繰り返しだ。各連は「わたしは」で始まり、体言止めで終わる。三連まではほぼ同じ構造のバリエーションといえる。そこでは、「わたし」は「稲穂」「羽撃き」「海」と、規定からの逸脱が希求される。リズムもほぼ七五に近い。四連ではその繰り返しが崩されるが、リズムはやはり落ち着いている。読者は自然にここまでを読むことが出来る。しかし、五連で立ちどまらざるを得ない。,(カンマ)や.(ピリオド)などの記号が記されたうえ、息のつげないながい行が続く。ここで、今まで安定した構造で理知的に保たれていた意識が、いっきょに崩れ感情が流出する。静かにしかし激しく思いが表れる。ここがこの詩の鍵だ。
また、この詩を比喩と考える読み方も一般的のようだが、はたしてそれもどうだろうか。確かにそれだと、一人の女性の語り手が現れ落ち着く。しかし、私としては「稲穂」「羽撃き」「海」「一行の詩」と考え、四連だけを比喩と読みたい。そうしないと、最終連の破綻による感情の流出が、意味を成さない。そう考えると詩はより広がり、「けりをつけないでください」という、名付ける力に対する、人間の本質的な反抗の意志となる。