遠く来て 新川和江
一滴の水をもとめて
遥かなところからわたくしはやって来ました
ようやっと辿りついた大河には
多くの生命体がむらがり
両岸には大都市が繁栄していました
欲望に膨れた腹を剥き出しにした水死人が
浮きつ沈みつ流れてゆくのも目にしましたが
わたくしは尚 一滴の水にかわく者です
一片の火種を探して
永遠に続くかと思われる闇の中をわたくしは来ました
大きな火は要らなかった
豆粒ほどの燠がひとつあれば
闇の中 手探りの手が触れて結ばれたあのひとと
わたくしのための一碗ずつの粥を炊き
互いの目を見詰め合うこともできる明りを
育てることが わたくしにはできましたから
わたくしの踏むひと足ひと足を
土は鷹揚に受けとめてくれました
今 わたくしが立っているこの土がそうです
走ってゆく子供の脚を無惨に吹きとばす
悪魔の球根などではなく
柔らかな緑の芽をふく種子だけを蓄えている土
生ききってやがて地に崩折れるわたくし達を
そっくり抱きとってくれる あたたかな土です
「記憶する水」 思潮社 2007年
詩人73歳の作。なお、みずみずしさ、初々しさを失わない文体
には驚かされる。敬体を駆使するのに巧みな書き手だが、つきものの甘さは抑えられ、風格が感じられるのは、やはり経験の深さだろうか。
「遠くから来て」という歳月への述懐がこめられているタイトルの、時間だけでなく地平をも広げていく表現も、この詩人ならでは
と思われる。
1974年「土へのオード13」、1977年「火へのオード18」、
1980年「水へのオード16」と、過去に三大エレメントに捧げる詩集が上梓されているが、この詩は、オード三部作が一篇に盛り込まれた形だ。一滴の水、豆粒ほどの火など、慎ましい願いをめぐる各連の結び方は見事というほかはない。
少なからぬ悲劇を目撃したかもしれないのに、この詩人はまだ世界に失望していない。このように世界を肯定し、希求する時、信じるものについて歌い、その言葉の力を信じる時、詩人はゆっくり開いていく大きな花のようである。
詩集の巻頭に掲げられた作品は、詩人のマニフェストだという密かな考えを私は持っている。この詩も詩集「記憶する水」の巻頭に掲げられている。