自明灯火 暁方ミセイ
真夜中に出た列車はいまごろ真っ暗い
山の中を、
ごおごお もう帰還しない兵士のように
途方もなく疾走しているだろう
かつて
わたしもあの青いラインの車両に乗り込み
灰色の折畳み式椅子に座して
暗い夜中をゆく窓を見た
ふいに現れる
皓々とした工事場の灯り
(なにを掘り出しているのだろう、)
それは
凍えた年の瀬の裸電球のように
現れたりするのだが……
(中略)
ただ、
ほのかに青白む
冷えた窓にくりぬかれた
わたしは 二十歳でした
いっさんに駆けぬけ
燃えしきる工事場のランプ
見つめた、
わたしは
身体分だけの身体で
あの場所に座し
いずれ掻き消えていく
ひとつの灯りでした
誰にも否定することができない
現実の真摯さを以って
いつか死んでしまうことが
はっきりとわかった
わたしは燃えた事実を携えて
二十歳でした
(『ウイルスちゃん』所収、2011年10月、思潮社)
「身体分だけの身体で」という行に目が留まります。
「身体分だけの身体」という言葉で、何がいわれているのでしょうか。
私たちの身体は、しばしば身体分よりも大きくなったり小さくなったりするのでしょうか。
いえ、むしろ私たちの身体はそうであることがあたりまえなのでしょう。
私たちの身体はだいたいいつもふくらんでいたり、ほとんどなかったり、輪郭がぼやけたりしている。
身体がぴったりと身体分になることは、とてもめずらしい、そしておそろしい、奇跡のような出来事なのかもしれません。
この詩の中では、真夜中の列車に乗る二十歳だった「わたし」が、「身体分だけの身体」になる奇跡において「いつか死んでしまうことが/はっきりわかった」ことが思い出されています。
多くの場合、人はどこかのタイミングで「いつか死んでしまうことが/はっきりわかった」という体験をするように思います。
私の感覚では、それが「二十歳」というのは少し遅いのではないかと感じます。
だからもしかしたら、この詩の中で述べられている「はっきりわかった」は、私がいま考えた「はっきりわかった」とは違うのではないか。
私はまだ、いつか死んでしまうことをはっきりとわかっていないのではないか。
私にとって、この詩につきつけられるのはそのような問題です。