日めくり詩歌 自由詩 岡野絵里子(2011/11/16)

宿題 辻征夫

すぐにしなければいけなかったのに
あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった
いまならたやすくできてあしたのあさには
はいできましたとさしだすことができるのに
せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて
もうわたくしのしゅくだいをみてはくださらない
わかきひに ただいちど
あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて
げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに
わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった


 切ない。人は誰でも人生には後悔がある。ああ、無駄に過ごしてしまったなあと思う。自分の人生は失敗ばかりだったと思う。大人は悔いる生き物なのだ。

 宿題とは何だったのだろう。本当に母校の恩師と何かを果たす約束をしたのだろうか。それとも、「せんせい」も「しゅくだい」も時間の彼方からやって来た優しいメタファーなのだろうか。

 ひらがなの並ぶ詩行は柔らかく、白い雲の中にいるような、夢を見ているような浮遊感がある。ふんわり漂っているのだけれど、内側からは、重い悔いが体を突き抜けるようだ。本当にせつない。

 辻征夫という詩人は、こんなナイーヴなつらさを書く名手であったと思う。

 彼は或るインタヴューで、こう語っている。

 で、詩のことだけど、僕は若い頃ね、小川とか渓流とかでよく遊んだけれど、あんまり流れの激しくないところに、透明なビニールの袋に水をいっぱい入れて、それを石にちょっと寄っかからせて、バランスとって、立てておくの。そうすると、水がいっぱい入ってるから、立ってるのね。キラキラ光った透明な水だけど、それに石ぶつけるとバランス崩して、一瞬、ぺちゃんこになっちゃうんだ。一度何かに書いたかもしれないけれど、あれが僕じゃないかと思った。危うくバランスをとって立っているうすーい袋。口元までいっぱい水が入っているでしょう。その水は、経験とか感情とか、自分の内面というもので、バランスをとっていて、透明でキラキラ光っている。ところが、その水を濁らせちゃいけない。人に嫉妬したり、評価されないと悶々としたり、何か羨んだり、要するに我執というものがあんまり強いと、透明な水というものが濁ると思うんだね。そしたら、詩に絶対表われる。僕はそれを十代の頃考えたかな。河原で石ぶつけて遊んでいて。それでなんとか濁らせないで、ああいう風に立っていたいって。だから、そんなこと長年やっていたら、くたびれちゃうのはあたり前なんだ。

 渓流の中に、水を入れて立つビニール袋。流れに倒されないよう、内側を満たしながらこぼさない。そしてあくまで透明であり続ける。それが詩であり、詩人だというのだが、生身の人間には苛酷な生き方に思えてならない。

 詩人はくたびれて遠くへ行ってしまったが、私たちはここで、残された詩を読んでいる。そう思うと、胸がいっぱいになる。


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