四十六番 灼熱アジア
左
冬晴れのとある駅より印度人 飯田龍太
右勝
旅客機閉す秋風のアラブ服が最後 飯島晴子
“灼熱アジア”と大きく出ましたが、これはご存じのように、NHKスペシャルで二〇一〇年の八月から十一月にかけて四回シリーズで放送された番組名です。タイトルを借りておいてなんですが、当方は見ておりません(月間TV視聴時間三十分以下なので)。で、当然、インドも中東も対象になっていると思い込んでたわけですが、念のため調べてみると、
第一回 タイ “脱日入亜”日本企業の試練
第二回 中東 砂漠の富の争奪戦
第三回 インドネシア 巨大イスラム市場をねらえ
第四回 日韓中 緑色戦争
あれれ、インドネシアがあるのにインドないじゃん、そんな馬鹿な。もちろん、この文脈でインドが対象外なんてはずはないわけで、じつは二〇〇七年の一月に、「インドの衝撃」という別の三回シリーズが放映済みだったのでした。つまり別格扱い。
第一回 わき上がる頭脳パワー
第二回 十一億の消費パワー
第三回 台頭する政治大国
もう、字面を見るだけで灼熱感に満腹、ですね。それに比べて、掲出した二句の清涼感というか、寂寥感はどうしたことでしょう。ちなみに、左句は一九七七年の作。右句は一九六六年以前作。なるほど、日本の方が灼熱していたので、あちらの方々が寂しげに見えたということもあるかもしれませんね。ところで今回こんなお題を立てたのは、「週刊新潮」で俵万智さんが連載している「新々句歌歳時記」に、左句が引かれて鑑賞されているのを見たのがきっかけでした。
インド人がきいている。なぜかわからぬが、インド人がとある駅に降りたった。山梨県生まれの龍太にとっては、インド人を見るだけで、もうそれだけで感激してしまった。これがドイツ人やスイス人であってはいけない。断じてインド人でなければ、この句は成立しない。だってインド人が降りてきたんだから。冬晴れ、とある駅、印度人、という組合わせが新鮮である。(「週刊新潮」二〇一一年十一月二十四日号)
読んでいて、まあそうかも知れない、そう感じる人がいても格別不思議ではないのかも知れないと思いました。思ったのですが、しかしダメだ、こんな句は断じてつまらんと叫ぶ私がもう一方にいたのです。なぜかというと、私がインド人が多いことで知られる西葛西の住人だからかと思われます。日本に住むインド人二万人のうちざっと一割が西葛西に住んでいるとかで、といっても中華街とかコリアン街みたいなことになってるわけではないのですが、毎年秋にはインド祭りなんていうイヴェントもやっております。当然、「とある駅」ならぬ西葛西駅では、冬晴れだろうが秋晴れだろうが、麗らかやだろうが日盛りやだろうが、インド人とすれ違わぬ日はない。それに、西葛西在住という特殊な条件を差し引いても、今やみんなインド人がやっているカレー屋で普通に食事するわけじゃないですか。龍太の「感激」も今は昔、想像はつくけど想像しなくちゃならない義理もないように思います。
以上は、俵さんの、〈山梨県生まれの龍太にとっては、インド人を見るだけで、もうそれだけで感激してしまった〉という直球ど真ん中な読みに対する身も蓋もない応酬にすぎませんが、しかし左句はやっぱりそれ程の句じゃないですよ。それ程の句じゃないという前提でこの句を好きだという人がいてもいいけど。というところで、灼熱アジア仲間が登場する秀句として右句を掲げた次第です。比較すると、左句は手を掛けなさすぎであることがわかるでしょう。右句の思い入れにも時代色は感じますが、この「秋風」が、左句の「冬晴れ」のような単なる取り合わせ素材の水準にとどまっていないことは確かに思われます。それだけでも、右句を一枚上手の句とする理由になります。思い切った破調も効果的。右勝ち。
季語 左=冬晴(冬)/右=秋の風(秋)
作者紹介
- 飯田龍太(いいだ・りゅうた)
一九二〇年生まれ、二〇〇七年没。掲句は、第七句集『涼夜』(一九七七年 五月書房)所
収。ただし、引用は『現代俳句の世界15 森澄雄 飯田龍太集』(一九八四年 朝日文庫)
より。
- 飯島晴子(いいじま・はるこ)
一九二一年生まれ、二〇〇〇年没。掲句は、第一句集『蕨手』(一九七二年 鷹俳句会)所収。ただし、引用は『飯島晴子全句集』(二〇〇二年 富士見書房)より。