眼と現在 ━━ 六月の死者を求めて 天沢退二郎
何よりもまず
その少女には口がなかった
少女の首をはさみつけている二本の棒には
奇妙な斑とたくさんの節があった
みひらかれた硬い瞳いっぱいに
湿った壁が填っていた
その壁の向う側から
死んだ少女のまなざしはきた
少女の首から下を海が洗っただろう
波にちぎれた腸やさまざまの内臓は
みがかれ輝いて方々の岸に漂いつき
それぞれ黒い港町に成長していっただろう
手足だけはくらげより軟かくすべすべして
いつまでも首の下に揺れ続けただろう
長大な蛇よりも長大な一羽の鳥が
もっと長くなるために身をよじっている
稀になった羽毛がひとつ散るたびに
子どもがすばやく駆けよっては
母親の叱声に引き戻される
見上げるとぼくらの上に空はせばまり
鳥の呻きの翔けのぼる白い道すじが
その鳥よりも長大な幟をふるわせるばかりだ
壁はつめたくそして軟かかった
手を入れれば入り底はなく
ただ透った非常に高いひとつの声が
たくさんの小さな血の鞠となってちらばっていた
それらを伝わってあのまなざしはきたと
信じぼくらは向う側へ出たが━━
ぼくらは黒い港町の廃墟をただ歩きまわった
死んだ少女のにおいがときに流れると
そのあたりに必ず一組の母子がひそんでいた
細かいひだのある臭い土管をいくつも跨いだ
帰るみちはもうわからなかった
詩集『朝の河』(1961年刊)から
たとえば大学生のような若い世代に、60年代詩を説明するとき、時代背景をどのくらい把握しているのか分からなくて苦労することがある。安保闘争や全共闘などをどのように知っているのか。むろんぼくも当事者的な実体験として知るわけではないが、60年代後半の皮膚感覚的記憶と後追いで仕入れた知識は持っている。ところが平成生まれの大学生あたりになると、伝聞情報を仕入れる以外に方法がないことになる。やむを得ないことだけど。
今回紹介の天沢退二郎「眼と現在」は1961年刊行の詩集『朝の河』に収録されている。背景を知らなくとも優れた詩ではあるが、解説すれば副題に「六月の死者を求めて」とあることから推測可能なように、安保反対闘争における60年6月15日の国会突入で死亡した東大生樺美智子の事件が作品の契機になっている。当時の政治闘争の中でひとりの死者がでたことの意味は、今では説明されなければ分かりづらいことのひとつだろう。
とはいえ、冒頭の「少女」の無残な死のイメージは時代背景を抜きにしても鮮烈に伝わってくる。死と隣り合わせのような理想の位相。発話者を包囲する不吉な「黒い港町」の異様。「母子」に象徴される、わたしたちの内にひそむ保守的血縁共同体の陥穽。「長大な蛇よりも長大な一羽の鳥」という運動体の苦悶。そして、最後に語られる「帰るみちはもうわからなかった」という、運動の果ての徒労感や前衛であることの悲壮感。こうした様々なイメージが響き合って豊かなものを読者にもたらしてくれる。
60年代詩人の大きな特徴のひとつには左翼幻想の崩壊があると思うが、本作にはまだ明瞭なそれは現れていないように読める。