日めくり詩歌 自由詩 岡野絵里子(2011/11/29)

幸福な葉っぱ   高橋順子

木の下で雨宿りしたことがあったね
わたしの心に山のしずくが落ちていた あのころ
葉むらの中のまるい小さな空を見上げたことがあったね
葉っぱの勲章を服にびっしり付けて
 
それらを忘れないことが
いいことかよくないことか知らない
なにか急いでいたのが
それらを早くう失うためだったかどうか
知らない
 

 
いつか夢が終ると 思っていたのだから
幸福だったのだろう
或日剣のような葉っぱの悲しみが来るだろう と
 
臆病な器官が わたしの中にはあって
もっと悲しい悲しみの
予行演習を始めるのだ
 

 
去っていったら
去っていったと思えばいいのだけれど
鳥ガ飛ンデイッタラ
鳥ハイナクナッタと
 
このごろ去っていきたい鳥に
行かないでと繰り返しているのは
九官鳥みたいな
言葉の覚えかたをしてしまったのかしら
わたしの九官鳥よ
もうお黙り

「幸福な葉っぱ」 書肆山田 1990年

 


 

 多くの著作のある詩人。登場時すでに独自の文学世界を持っていながら、どこか傷ついて孤独な少女のようでもあった第一詩集「海まで」(1977年)。時を経た第四詩集「幸福な葉っぱ」でも、何かを望み、憧れやまない声が鉢植えの花や小鳥の羽根の陰から聞こえてくる。

 いつか夢が終わると 思っていたのだから
 幸福だったのだろう

 幸福な日々でも、それが破綻した時のために心の準備をしてしまい、あまり楽しまない、不幸な時期でさえ、更に大きい不幸が来た時のことを考えている人。悲しみに襲われることを、どれだけ恐れているのだろう。できることなら、笑って彼女の恐れを吹き飛ばし、明るく励ましてあげたくなる。
 が、次の瞬間、私たちもまた、まだ来ない悲しみに捉えられていることに気づく。誰のなかにもある「臆病な器官」が動き出してしまうのだ。
 そして思い出す。競争のように生きて、早く大人になってしまったために、もう手の中にはないものを。
 雨宿りする子どもの姿が見えてくる。初めは小さく、そしてだんだん近づいて。頭上で、無数の葉が山の緑を映した滴で濡れている。雨の日には水の、晴れの日には光の恵みを受ける幸福な葉たちだ。
 鳥が飛び立つように、去っていこうとする人がいても、引き止めることができなくても、「去っていったと思えばいい」。詩人の声は、幸福を望み、遥かなものに憧れやまぬ声だ。飛んで行った鳥の後を、木は追わない。ただ葉々を陽の方へ向けている。
 この詩のタイトルが「葉っぱの悲しみ」でなく「幸福な葉っぱ」であるのは、一枚の葉の喜びを詩人が知っているからだ。それはきっと、貪欲な人間たちには手の届かない、輝くような幸福であるのだろう。

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