賭け 黒田三郎
五百万円の持参金付の女房を貰ったとて
貧乏人の僕がどうなるものか
ピアノを買ってお酒を飲んで
カーテンの陰で接吻して
それだけのことではないか
美しく聡明で貞淑な奥さんを貰ったとて
飲んだくれの僕がどうなるものか
新しいシルクハットのようにそいつを手に持って
持てあます
それだけのことではないか
ああ
そのとき
この世がしんとしずかになったのだった
その白いビルディングの二階で
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
丁度僕と同じ位で
貧乏でお天気やで
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
ブドウの種を吐き出すように
毒舌を吐き散らす
唇の両側に深いえくぼ
僕は見たのである
ひとりの少女を
一世一代の勝負をするために
僕はそこで何を賭ければよかったのか
ポケットをひっくりかえし
持参金付の縁談や
詩人の月桂冠や未払の勘定書
ちぎれたボタン
ありとあらゆるものを
つまみ出して
さて
財布をさかさにふったって
賭けるものが何もないのである
僕は
僕の破滅を賭けた
僕の破滅を
この世がしんとしずまりかえっているなかで
僕は初心な賭博者のように
閉じていた眼をひらいたのである
また「荒地」の詩人。黒田三郎。現在ではあまり評論も書かれていないし、黒田が好きだという若い人も少ない。鮎川や田村だけでなく、その後目覚しい仕事を残した北村太郎なと比べても、今は黒田は印象が薄い。黒田の詩が「荒地」の中でも分かりやすく、別のいい方をすればウエットだったことが、言葉の衝撃度が後から読むと弱く、やや埋もれかけている理由だろう。しかし、戦前はかなり理知的な思考の強い詩を書いていた。
戦争が彼の詩を変えたことは間違いない。1940(昭和15)年にジャワに行き、終戦までの約5年間を戦場にいたことになる。黒田が戦後、闇を払うように酒をあおり、大きな手で周りはねのけるしぐさをしたというのは、有名なエピソードだ。そのような黒田の内面は、作品においては底なしの「虚無」として表れる。
黒田の詩は分かりやすく、たしかに「荒地」の中でも例外的にウエットだ。しかも、H氏賞を受賞した『ひとりの女』や、『小さなユリに』など、日常の生活そのものに題材をとったものが多い。掲出の詩も1954(昭和29)年に昭森社から刊行された、『ひとりの女に』に所収された、そのような詩のひとつといえる。そして、どうしようもない「虚無」を感じないわけにはいかない。
詩は否定的な言説に満ちている。一連で語られるのは、希望の喪失とでもいいたいような、主体の心情だ。二連ではその主体の心情を映し出すような、対他的存在としての女性が描かれる。このあたりは鮎川の詩とも共通する。しかし、はるかに主体の心情が強いウエットなものだ。リズムも極端な逸脱はなく、七五調に収まるものが多い。
この詩の要点はいうまでもなく最終連だ。現実をまったく裏返しにする、小さな爆弾が仕掛けられている。「僕は/僕の破滅を賭けた/僕の破滅を」の3行だ。「破滅を賭ける」こと自体、普通の思考でなく、読者を驚かせる。さらに、僕の連続と「三三七七」あるいは「三七三七」という、微妙なリズムのずれが小さな起爆剤になっている。ここにあるのは言葉のひとつの覚醒ともいえるだろう。
実際には何もも起こりはしない。しかし、「閉じていた眼をひらいたのである」と、世界は変わるのである。生活の実感を思考の言葉にした確かな重みがある。力強くも悲しく体の奥にまで響く。人はどのような「虚無」を抱えても、なお生きていく。現在にも届く重要な問いかけだ。