日めくり詩歌 短歌 斎藤寛 (2011/12/20)

猫じやらしにつよく反応せし頃のきみをおもへり十年が過ぐ    小池 光

第8歌集『山鳩集』(砂子屋書房刊、2010年6月)より。

この一首は、その後、日曜日の「日経」文化面に小池さんが連載されていたコラム「うたの動物記」の最終回「猫」(2010年10月10日)でご自身の歌の紹介として引かれた際には、《ねこじやらしに強く反応せしころのきみを思へり十年が過ぐ》というふうに、漢字と仮名の配分が変えられていた(小池『うたの動物記』日本経済新聞出版社、2011年所収)。小池さんは既発表の自作についても、なお推敲を重ねられているという話を聞いたことがある。この一首も、作者としては歌集バージョンの表記よりも『うたの動物記』バージョンの方が気に入っているのかも知れない。あるいは、いろいろ考えてみたが、結局、歌集バージョンの方に落ち着く、と言われることになるのかも知れない。

5年ほど前の小池さんのブログのある日の記事にこんなくだりがあった。

[…前略…]
 
なう猫よ、おまえだけがたよりだじゃい
おまえだけがともがらだじゃい
おれはうちとけた友ひとりだでなきに
おまえを股肱の臣ともたのみ心の友ともしたしみ
この世につなぐよすがとおもふに
なう猫よ、どうじょ安寧でいてくれい
わかったかや
 
といひたれば眠り猫まさしくニャアと鳴きたり
おお、友の猫ことばを解す なんたることじょ
 
[…後略…]

というふうに深く猫を愛する作者である。小池さんのブログは現在しばし休止中だが、上記の一節は、戯れの余滴のように綴られていながら思いの籠められたくだりと思い、僕のパソコンに保存してあったのだった。数えてみたわけではないが(どなたかすでに数えてみたという方もきっとおられるだろうと思う)、小池さんの作品中に、かなりの頻度でこの愛猫が登場する。

かなしきまでをさなごの如くおもはれて眠れる猫をわれは抱き上ぐ
かゆいとこありまひぇんか、といひながら猫の頭を撫でてをりたり
だしぬけに箪笥のうへに舞ひ上がるこのいきものはさつきまで猫
かなしまず猫としてありて七年目ダンボールの箱にをりをり入る 

上記1首目は第6歌集『滴滴集』(2004年)、2首目は第7歌集『時のめぐりに』(同前)より。3、4首目はこの『山鳩集』より。かつて岡井隆さんが「小池光の歌ふ猫の歌のたとへ様もない美しさはなんであらう。わたしは、そして小池光自身も、たとへば猫に救はれてゐる」と書かれていたのを思い出す(角川「短歌」2005年10月号)。その猫も近年、齢を重ねてきたさまが、『山鳩集』の歌からはうかがわれる。

連載の最終回を見とどけて四日ののちにみまかりゆきぬ
野良猫にひとたび生まれいつのまに妻なきわれをかくも慰む

上記1首目は角川「短歌」2011年11月号より。「日本経済新聞『うたの動物記』」という詞書がある。2首目は「短歌人」2011年11月号より。昨秋、小池さんはおつれあいをなくされて、このところその悲しみを詠まれた歌を多く発表されている。「日経」のコラムの最終回で引かれていた「ねこじやらしに・・・」は、おつれあいが最後に目にされた小池さんの歌、ということになるのだろうか。その最終回のエッセイで、十年ほど前の引越しの時に、一匹の野良猫がなついて愛猫となったいきさつにふれられていたのだった。

こんなにも痩せたる猫の背を撫づる痩せることよりかなしきはなし

『山鳩集』にて「猫じやらしに・・・」の次に配されている一首。この二首をもって「十年」という項が立てられている。「日経」のコラムに「猫に対し『きみ』と呼びかける感覚にも、いつか違和感がなくなっていた。これは猫のかたちをした一匹の浮世の仲間である」と書かれていたが、作者についての情報を心に置いて読むと、いっそうしみじみとした余韻が読後に残る。

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