月を見る 福間健二
人と人のあいだで
月を見る。
人と人
悩みと悩み
ひらかない
翼と翼のあいだで。
生まれてくるさびしい動物の始末に困って
ほとんど眠っているみたいに
風に揺れながら
「それでも飛ぶよ
この春の
いちばん進化しない鳥」
雨の峠から
規格と
弁解と
灰におおわれた小さな町におりて
階段通りを歩く
ひとりの男に戻る。
わたしは生まれる。
少しずつ薄くなりながら
何度でも生まれる。
ひとつの事態
ひとつの装置の奧の
炸裂のなかに目ざめる。
青いきみに気づいて知らないふりをする人と人のあいだの
「痛いのは体でも心でもない」という影となって。
運命でも
物語でもないものに
くたびれた翼をまかせること。
だれとだれのあいだでも
それを許されるとは
思ってはいけない
この夜
この影だけが通れない
門のむこうに
月を見るのだ。
「青い家」 思潮社 2011年
詩集「青い家」所収98篇のうち75番目の詩。この中で「わたし」は「歩くひとりの男」であり、何かの「あいだ」に常に挟まれている存在である。人々のあいだ、一つの悩みと次の悩みのあいだ、体と心のあいだ。そして一対の翼のあいだにある頭脳で思考し、詩作し、避け得ない孤独と痛みを柔らかくいなそうとしている。
死もまた、人の避け得ない運命だが、それはこんな風に表現されている。死とまさに対極の言葉で。
わたしは生まれる。
少しずつ薄くなりながら
何度でも生まれる。
人は亡くなっても、思い出されることで、世界の中に何度でも甦る。だが時代を経るにつれ、存在は薄れていくものだ。と、こう書けばフツーである。詩人はそうは書かない。
現代詩において、長い間、声高にうたわれてきたのは死であり、死の属性としての生であっただろう。生きること、日常を生きる生身の人間であることは、いわば親しい友人にだけ打ち明ける秘密であった。
だがこの詩行は、私たちに生の地平をまばゆく広げてみせてくれる。詩人の内で、生の価値が死を凌駕していなければ、この言葉は出て来ない。私たちは目に光が入ったように、その率直な現れ方をまぶしく思うのだ。
詩集中、夥しい死者が思い出されては、薄れていき、この詩では「『痛いのは体でも心でもない』という影」になっている。「この影だけが通れない門」は、生者たちの地平を遙かに、生死の区別を越えた地点にあるようで、同時に、振り返ればすぐ手の届くところになつかしく立っているようにも思える。
そして月が見える。月を見る詩人がいる。その詩集は、これから詩が進んで行く道筋を、道標をちょっと押すようにして、さりげなく修整したように思う。