空の頬、骨のねむり
——————田端駅から中里町を抜けて王子駅まで。死んだ兄と歩いた。
野木京子
その駅でのりものをおりて
失った人に逢った
上空の頬の横を
骨のねむりは流れ
地の裏 灰色の水が生きているかたまりになって
ふるえる
ゆるい坂をくだった
わたしとわたしの失った人は
空が見おろして息を吐く
迷路のかげで
見えない影が走り去る
影たちが動く街並みを歩いた
抜け出ることを望んだか
望まなかったか
結局は一歩も
死んだ人が棲む部屋から立ち去ることはなかった
境界を連れて移動する
訪れた風は砕けて
足もとに落下して散る
わたしの死者とわたしは
幾重もの重なりになり
無限の入れ子になって、つらなる
なつかしい隣人
弱い光のその者たちがわたしを運び
わたしがきょうの彼らを運ぶ
「ヒムル、割れた野原」 思潮社 2006年
エピグラフの「死んだ兄と歩いた」に、読み手ははっとする。異世界に足を踏み入れかけているのに気づいて、大きく目を瞠くだろう。
上空の頬の横を
骨のねむりは流れ
地の裏 灰色の水が生きているかたまりになって
ふるえる
そこでは、頭上の空に死が流れ、地に生が甦る。「空が見おろして息を吐く」。相貌的知覚の親しさと、毀れていくものの虚ろが代わる代わる現れる。
見えない影が走り去る
影たちが動く街並みを歩いた
もはや生の影だけが残った街。「見えない影」とは時間だろうか。それも失われていく。この街は、現実の中里町と重なって存在しており、「わたし」と「失われた人」は、二つの街を同時に通過する。生者と死者が手を携えている故に、生と死の領域両方に通行が可能なのだ。
わたしの死者とわたしは
幾重もの重なりになり
無限の入れ子になって、つらなる
なつかしい隣人
弱い光のその者たちがわたしを運び
わたしがきょうの彼らを運ぶ。
誕生と死が果てなく連鎖していく光景が目に浮かぶ。二人の生死も永遠の鎖輪の一つずつ。生命の始原から、どれほどの数が連なっていても、なつかしいのは自分をこの世に運んでくれた人たちだ。
だが今は、「わたし」が「きょうの彼ら」を運んでいるのだ。死の影の国から、そして過去から現在へ。
それは静かな鎮魂の儀式のようにも見え、愛しい者たちとの至福の旅のようにも見える。