日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2012/01/23)

五十八番 首を絞める

左勝

怒らぬから青野でしめる友の首 島津亮

お互ひの首絞めてみる月夜かな 眞鍋呉夫

眞鍋呉夫という作者には少々アンビバレンツな感情を持っている。新興俳句の少年作者であった時代は別として、一九九二年の『雪女』以後は、世界がすっかり完成し、固定してしまっていて、たまさか総合誌などで作品を見ても、ああまたやっているという印象を拭うことが出来ない。事実、相も変わらずの雪女俳句であり、傀儡俳句なのだから、これを当方の不当な批判とするわけにはゆくまい。しかし一方で、同時発表の諸氏と比べると、大抵の場合この人の方が面白いことは面白いのである。同じ材料を、手を変え、品を変えて料理しているだけでありながら、言葉が上つらを流れ過ぎてゆくようなことはなく、きちんと見どころが作ってあって、全く心動かされぬまま素通りするわけにはゆかない仕組になっている。

で、右句。八句からなる新年詠の中の句で、雪女、傀儡とならぶ十八番の痴情俳句である。これがもっと若い作者の作だったりすると、なにやら生々しくなって読む方も少し引いてしまいそうだが、作者が九十翁だと知って読むとおのずから別の感慨が生じる。折角だから作品に添えられた「新年に思うこと」という短文も引いておこう。

今年は私が三十年にわたって兄事した檀一雄氏の生後百年目に当る。そういう私も九十二歳になったが、できるだけ「生きるということは、自然との対比の中に己の限界を匡し、己の限界を越えることだ」という遺訓を実行して、檀さんに会いにいこうと思う。

こういう調子だから、掲句なども生死一如ならぬ性死一如のファンタジーのたたずまいを帯び、人間の奥深い面白さに触れたような、得したような気分になる。一連の冒頭が(例によって)

露の世に生れて逢ひし雪女

であるところからすると、首を絞め合う相手は雪女でもいいし、そうでなくてもいいだろう。

ところで俳句で首絞めといったら、左句である。この句については多くが書かれてきたはずで、代表的な鑑賞としては金子兜太の『今日の俳句』や塚本邦雄の『百句燦燦』所収のそれがあるが、紹介すると長くなりそうだ。簡にして要を尽くしているのは、夏石番矢『現代俳句キーワード辞典』の「友」の項の説明。

友は、率直な感情表現を投げかけるにふさわしい人間である。島津亮は、あまりにやさしい「友の首」を、いらだって「しめる」「青野」のワン・ショットを切り取ってきた。友への愛憎が明確にあらわれている。

塚本はここにさらに同性愛的なものを読み取り、金子は「美しい退廃」に耽溺する感覚の深さを讃嘆する。左右両句を比較すると歴然とするのは、左句の「怒らぬから」という把握の見事さだ。右句もそれ自体としては充分に面白いのであるが、左句の陰翳の強さ、テンションの高さに遠く及ばないのは、ひとえにこの「怒らぬから」という飛躍の有無によるのである。また「怒らぬから」という理由にならぬ理由が成立するのは、相手が「友」だからである。言葉と言葉が支え合って、隅々まで動かしようのない堅牢な一句となっていることがわかる。左句こそは着想の独創性、新鮮さと強さ、実感性、言葉の不動性、どこから見ても完璧な秀句と改めて思った次第である。左勝ち。

季語 左=青野(夏)/右=月(秋)

作者紹介

  • 島津亮(しまづ・りょう)

一九一八年生、二〇〇〇年没。関西前衛派の中心作者の一人。掲句は、第二句集『記録』(縄の会 一九六〇年)所収。但し、引用は『島津亮句集 戦後俳句作家シリーズ16』(「海程」戦後俳句の会 一九六九年)より。

  • 眞鍋呉夫(まなべ・くれお)

一九二〇年生まれ。小説家。吉岡禅寺洞の友人で俳句を嗜んだ父の影響で早くから俳句を作る。句集に『花火』『雪女』『月魄』あり。掲句は、「俳句」誌二〇一二年一月号掲出の「月白」八句より。

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