母国語 飯島耕一
外国に半年いたあいだ
詩を書きたいと
一度も思わなかった
わたしはわたしを忘れて
歩きまわっていた
なぜ詩を書かないのかとたずねられて
わたしはいつも答えることができなかった。
日本に帰って来ると
しばらくして
詩を書かずにいられなくなった
わたしには今
ようやく詩を書かずに歩けた
半年間のことがわかる。
わたしは母国語のなかに
また帰ってきたのだ。
母国語ということばのなかには
母と国と言語がある
母と国と言語から
切れていたと自分に言いきかせた半年間
わたしは傷つくことなく
現実のなかを歩いていた。
わたしには 詩を書く必要は
ほとんどなかった。
四月にパウル・ツェランが
セーヌ川に投身自殺をしたが、
ユダヤ人だったこの詩人のその行為が、
わたしにはわかる気がする。
詩とは悲しいものだ
詩とは国語を正すものだと言われるが
わたしにとってはそうではない
わたしは母国語で日々傷を負う
わたしは毎夜 もう一つの母国語へと
出発しなければならない
それがわたしに詩を書かせ わたしをなおも存在させる。
「ゴヤのファースト・ネームは」 青土社 1974年
この詩は1970年の後半に書かれたのかもしれない。パウル・ツェランが49歳で亡くなったのがその年だからだ。
飯島耕一自身は鬱病で苦しんだが、その病からの恢復の光が詩集「ゴヤのファースト・ネームは」である。表題作は長いので、ここには引用できなかったが、この「母国語」も名作。
「日本ではない、日本語が私の母国だ。」と言った別の詩人もいたが、まさに詩語が母国語であることがテーマになっている。
外国にいる間は、日本語からも詩人であることからも解放されていた。どれほど晴れ晴れとしたことだろう。だが、帰国後しばらくすると「詩を書かずにいられなくなった」。
パウル・ツェランはドイツ生まれのユダヤ人だった。イディッシュ語も使えたが、ドイツ語を日常語として暮らしていた。が、大戦勃発と同時に、ドイツから迫害を受け、両親は強制収容所で亡くなった。ツェランが収容所の母に捧げる詩を書いた時、ドイツ語は母国語だったのか、敵国語だったのか。母を殺した者たちの言葉での鎮魂は可能なのか。
飯島耕一は、彼が自死した理由を「わかる気がする」と書く。読む者には癒しとなる詩でも、詩人にとっての詩作は、自らを傷つける行為なのだ。その一点に、痛いような共感があったのだろう。いわゆるユダヤの傷を負って、追い詰められた詩人の悲劇への理解というより、あくまでも詩人としての共感だったと思われる。
そして詩人は毎夜、詩語という母国語を発見しに机に向かう。それが詩人の存在理由だからだ。「詩とは悲しいものだ」。詩人ほどそれをよく知る者はない。