遠く 日だまり 坂多瑩子
ノロウイルスの疑いがあるようだけど
消毒液をふりかけながら
女の人は言った
今 寝たばかりですよ
大きな声だった
私も大きな声だった
どうでもいいようなことばかり
言って 女の人も
私に あわせ
そう あら これ と言った
窓際で
ふっくらした頬を片方だけ見せ 母は
目を閉じている そばに寄ると
母の分だけ
ぽっかりすきまができていた
そこには広場があって
まっすぐつっきっていくと平屋のスーパーがあって
入り口にはバナナとみかん
混んではいたが
私たちは何も買わず外に出る
スーパーぬけをすると商店街にでる近道なのだ
外にでると
ちょっとおかしい
木がかぶさった川ぞいに沿って道が一本
あるだけ
しかたなしに母と歩く
母はにこにこついてくる
やっと人と会う
商店街はどこかと聞く
その人は九秋からお嫁にきたばかりなのでよく分からないが
と言いながらも西の方向をさしてあっちと言う
南のほうをさして はずれのお店があの辺にあるかもと言う
広場をぬけてスーパーをぬけて
私は商店街が見つからず
ただ立っている
あら とか まあ は
もう
消えてしまって
遠いどこかで
母が
日だまりになっている
私は背すじをのばし
寝ているから帰るよと小さく言った
それからへやを出た
「お母さんご飯が」 花神社 2009年
施設にいる母を見舞う。高齢で、少し話が通じなくなっている。介護士らしい女の人が「消毒液をふりかけ」て、寝ている母のそばで「大きな声」で話す。「私」もつい彼女の機嫌を取って、同じ大きな声で調子を合わせてしまう。「どうでもいいようなことばかり」なのに。母を預けている身は辛いのである。
眠る母のそばに行くと、そこは「母の分だけ/ぽっかりすきまができていた」。肉体はベッドに横たわっていても、母の意識はそこにない。夢の世界へ出かけているのである。娘の「私」もそこへ入って行く。母の夢でありながら、自分の夢でもあるような不思議な領域だ。
まず広場がある。異界の入り口だ。現実世界とファンタジー世界、双方の毒が混ざらないように設けられた緩衝地帯でもある。そこを抜けて、夢の中を母と歩く。母は嬉しそうだ。夢の中まで娘が会いに来てくれたのを喜んでいるのだろうか。二人はなぜか商店街を探していて、それが見つからない。異界の住人にもわからなくて、「お嫁にきたばかり」だからというところが面白い。
立ちつくしているうちに、母が遠いどこかで眠り、陽がぽかぽかとあたっているような具合になってきて、夢から抜け出た。
介護士はもういない。母がベッドで眠っているだけだ。だが、そこには先ほどまではなかったものがある。それは胸に穴を開けるような寂しさだ。夢の中から持って来てしまったのだろうか。小さな声で言葉をかけて帰る。心は大きな声を出さない。囁くだけだ。心のそばを寂しさが吹き抜けて行く。
坂多瑩子は日常の見慣れた道具を異界の生き物に変えてしまう。彼女の詩行を歩いていると、いつの間にか、人間の論理を凌駕した不思議不条理な空間にいることに気づく。だが、その不条理はどこか人生の困難、人間社会の理不尽と通じるのもがあって、ほろ苦い。詩集「お母さんご飯が」には、不思議で魅力的な母娘の風景が収められている。この詩も忘れがたい一篇。