情事 瀬崎祐
庭に面した窓のカーテンをおろすと 寝
室はものごとの輪郭を曖昧にする 情欲にかられて彼女
の胸をはだけると そこには小さな皮疹があるばかりだ
体温を持たない身体はじっとりと湿っていて わたしの
指先をぬらしてくる もうあなたも水に伝染したわよ
かすれた声で告げる彼女の顔は いつのまにか皮疹だら
けになっている
彼女の家のあたりは山に囲まれて 黄昏も早い 谷川の
水が溢れてからは 不明熱で倒れる人もふえている
その人たちの発熱にtもなって 彼女は生け贄のように
熱を奪われ 何枚ものシーツを身体にまきつけてふるえ
ている 彼女をどのようにかばってやればよいのか わ
たしは困惑する そんな彼女のなかの暗いところには
絶え間ない川音が充ちている
情事をおえて寝室をでると 彼女の父親が座っている
そういえば 彼女の家系は分水嶺をこえて 西の方角か
らやってきたのだった
わたしは居ずまいを正す すこし悲しそうな父親が静か
な口調で語りかけてくるのだが その声は何かに吹き消
されているようで よく聞きとれない わたしの見えな
い箇所にも 皮疹があらわれているのだろう
家の前の小川のそばでは 子どもたちがあつまって騒い
でいる 子どもたちは 不明熱の治療にと配られた丸薬
がどうしても飲みこめない
いまは浅い流れとなっている小川のなかには 平らな石
がならんで水没している 子どもたちは飲みこめなかっ
た丸薬を 水神様へ と言いながら石の上に並べている
のだった
「窓都市、水の在りか」 思潮社 2012年
「情事」など本当にあったのだろうか?寝室に入っていった男は、水疱瘡にかかった患者の往診に来た医師といった風情なのである。この詩が詩誌ERAに発表された後の合評会では、「カフカ的な、情事の不可能性を描いている」と評されたほどだった。皮疹とか不明熱という医学用語のせいもあるかもしれない。が、どうやら作者の節度と清廉が情事の道に立ちふさがってしまうらしい。
とはいえ、作者は現実から屹立し、凡庸な想像力を凌駕した仮想世界を易易と創造してみせる。言葉だけで世界を構築するその力量は瞠目に値する。
そこでは、風のアイデンティティが吹くことであるように、主人公は見ることであらゆる不可思議を通過して行く。だが無傷ではすまない。「情事」の世界では、皮疹の出る病気に感染し、聴力を失い始める。「祝祭」では、顔面に打撲を負っていて、「市場にて」では、肉屋に体の肉を切り取られる。
そしてその肉体は、「五月雨」では、足から水に溶け、「夜闇」では、皮膚を剥いで消滅に至る。世界自身が、人間の肉体の無化を促し、別の次元へ送り込もうとしているかのようだ。だがその先も、虚無に覆われた悪夢的状況に変わりないことを想像させて、物語は閉じられる。
主人公は、肉体が傷つき、無化する様々な世界を通り過ぎていく。それは現代医療の限界を知悉しつつ、治療に努め、死に至る病人を見詰め続ける者を私たちに思い出させる。
皮疹だらけの女性の寝室から出てきた彼が、医師に似た相貌を帯びていたとしても、それはあり得ることなのである。