七十三番 自然を詠む、人間を詠む(六)
左
ふるさとの土なり手毬よくはづむ 今瀬剛一
右
泥鰌掘り大股に畦越えにけり 今瀬剛一
今瀬氏のアンケートの一節には、
私は震災の翌日故郷の生まれ育った村を歩いたが、堤は崩れ、道路には亀裂が入り、母校の屋根瓦は砕け散って、それは無残な姿であった。
とあります。
被害の大きさからすると茨城か東北のようだが、東京周辺から翌日のうちに現地入りしたのだろうかと気になって調べると、今瀬氏のお住まいはそもそも茨城県西北部の城里町というところでした。では故郷とはどこなのかと、「花神現代俳句」シリーズに入っている今瀬氏の作品集の年譜を見ると、生地は東京都豊島区高松で、戦時中に茨城県小松村に疎開し、そのまま現在に至ると記されています。小松村は後に町村合併で常北町となり、常北町がさらに平成の大合併で城里町になったということのようです。現在のお住まいは同じ城里町内でも、旧小松村の区域とは別のところにあるということなのでしょう。にしても、年譜では生まれは東京となっているので、「生まれ育った村」という記述とは齟齬がありますが。
それはさておき、掲出の二句のようなタイプの句を現在の時点で読む時、私にはいつもリアリティをめぐってある戸惑いが起こるのを避けられません。今瀬さんが今、手毬で遊ぶことはないのは当然として、手毬で遊ぶ子どもたちだって果たして氏の周囲にはいるのでしょうか。いるかも知れないし、いないかも知れないのですが、いずれにせよこの句が、
焼跡に遺る三和土や手毬つく 中村草田男
と同様のリアリティを感じさせることはありそうもない。おそらくは町全体を見回しても手毬をつく年頃の子ども自体ごくわずかしかいないであろう現実。そして、「焼跡に遺る三和土」のなまなましさに比べての、「ふるさとの土」という措辞の空虚さ。アンケートにある、「私はこの震災によって心が故郷へ回帰したように思える」という言葉の真情は疑いを容れませんが、「季語は全て愛しい」といくら季語の素晴らしさを言い募っても、季語が芯に抱え込んでしまった空虚さまでは糊塗しきれそうもありません。
右句の「泥鰌掘り」については、「手毬」に比べればまだしも現実の手応えが感じられるようです。しかし、現に眼前の光景なのか、それとも記憶の中の光景を「泥鰌掘り」の題詠で詠んだものなのか、そこらあたり私は判断に自信が持てません。大股に(きっとひと跨ぎに)畦を超える、荒々しいようなせっかちなような動作に眼をとめ、巧みにスナップしたところを味わえばよいのはわかりますが、それでもこれはテン年代の現実なのか回想なのかというのはひっかかりとして残ります。そのひっかかりは、結局、私とこの句との関係性を弱いものにしてしまうようです。
左句はやや美辞麗句の気味があるようです。いちおう眼前写生の趣を保っている右句の勝。
季語 左=手毬(新年)/右=泥鰌掘る(冬)
作者紹介
- 今瀬剛一(いませ・ごういち)
一九三六年生まれ。「対岸」主宰。句集多数。