原宿のホームのベルと散りゆける花 れらみれらみしらみれしら 栗原寛
『窓よりゆめを、ひかりの庭を』(2012 短歌研究社)より。
第一歌集『月と自転車』以後の三十三歳までの青年前期ともいえる間の歌を収めている。もっともつぶさに描かれているのが、少年性からの脱皮と永訣へと至る過程である。
アフガンストール巻けば少年めく僕らさくらの森へあくがれてゆく
みづからをうしなはぬためさやうならを言ひに行く森のけやきの木まで
第一歌集の『月と自転車』で詠まれた、たとえばこんな歌。少し劇的な「僕」や少年が登場している。
黒いあの空に祈つてガニュメデスかがやくものを僕は見たんだ『月と自転車』
百年前ときつと変はらぬ響きならん少年の憩ふ大樹の下は 『月と自転車』
第二歌集はこれらからやや遠ざかって、表現にリアリティが加わる。アフガンストールは二等辺三角形をした大判のストールで、端に房がついているものが多い。首に巻けば少しいさましく、エスニックな雰囲気がただよう。そうしたアクセサリの具体をこの人は上手に使って自らの少年性を回顧する。かつて、少年は樹木のもとで「あくがれ」たり「憩ふ」たりしていた。茂る樹木もまた、この人の少年の象徴とともにしばしば登場していたモティーフであった。だが、この第二歌集では、それにも「さやうならを言ひに行く」のであり、少年期から訣別をする。それはやむをえない「みづからをうしなはぬため」なのである。
もう一つ、この歌集に非常によく登場するのが都市の中を走る電車である。あるときは無機質に、またあるときは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のイメージを持って詠われる。
同じホームに最終を待ち内回りと外回りとに別れて乗車
時が過ぎるのをひたすらに待つ午後に電車やうやく走りはじめつ
瞬きをくりかへしをり ジョヴァンニのやうに気づけばひとりの列車
東西線の夜に車輌をうつりゆくカムパネルラがさうしたやうに
孤独、あるいはザネリを救うために川に死んだカムパネルラの持つ死のイメージは、この人独特の捉え方ではないだろうか。「けれどもほんたうのさいはひは一體なんだらう」と考えていたジョバンニの孤独と、この人の孤独は類似している。
この人は自らの少年性とも別れて、また恋人からも離れて孤独を募らせている。無邪気であった頃を過ぎて自らが成人として、男性として、年を重ねてゆくことに違和感を感じているようにも感じられる。
掲げた歌は明るさを保っているが、花びらはなにか散華のようだ。結句で挿入される音階は、原宿駅で実際に流れる発車のベルを音符に起こしたものだ。「原宿b」と呼ばれているこのメロディは原宿駅二番線の池袋・新宿方面行きのホームで聞くことができる。この音階は実際には「レラ・ミレ・ラミ・シラ・ミレ・シラ」という上昇する八分音符の繋がりでできていて、「散りゆける花」のイメージが際立つ。
作者は短歌のほかに合唱や作詞・指揮の活動をされているという。絶対音感を持った人でなければ聴き取れないベルの音階をこの人は聴き、文字に表した。このように、音を敏感に利用した歌は他にもあって、音はこの人の孤独にいつも親しく寄り添っているものであるのかもしれない。そうしてこの歌が持つ、乾いた明るさと美しさは読む者の心になにかからーんとした寂しさを置いていくのだ。