はじめてのイブ 中村不二夫
はじめてのイブのために
私たちは土を掘り起こした
はじめに主がそうしたように
私たちは自らの皮をはいだ
つぎに肉を切って捨てた
イブの胎内へと
その前の主の塵へと
ただそこへの帰還として
私たちはただ主の前に
一本のあばら骨を取り出した
その骨を土の中に埋めた
そこに十字架を立てた
私たちは永遠を飲み干した
すべての重荷を負う者よ
失われたエデンの園のために
命の木の道のために
今は眠りの中にしかない
ピション ギホン チグリス
ユーフラテスの四つの川のために
エデンを護るケルビムのために
私たちは悲歌を作り続けた
詩華集「創世記」 日本キリスト教詩人会 2000年
「創世記」によれば、神によって土から作られた最初の人間がアダム、彼のあばら骨から作られた女性がイブである。アダムとイブは楽園エデンに住むことが許されていたが、蛇の誘惑に負け、禁断の実を食べたことで追放され、以来、人間は荒野で労働する生きものになった、とされている。
人間など、所詮、土の塵が出自であり、誘惑に負ける弱い愚か者にすぎない。そう銘じているかのように、この詩も詩人も限りなく謙虚に澄んでいく。
澄んだ精神には、肉体さえも過剰な飾りであるかのごとく、「私たち」は自分の皮を剥ぎ、肉を切って捨てる。この世の荒れ野での生を終え、母なるイブの胎内へ、更には神の足元の塵へと「帰還」するのだ。この世に残すものは富でも名誉でもない。一本のあばら骨を土に埋め、その上に十字架を立てるだけだ。
だが、「私たち」は詩人である。信仰を極めた者としても、詩人としても、神の顔を見ることは「永遠を飲み干す」恍惚であろう。地上の「すべての重荷を負う者」として苦痛と恍惚を体に刻みながら、書き続けなければならない。
エデンから流れ出ていた四つの川は、今はもう天地創造を終えた神の眠り、そして歴史を夢想する私たちの眠りの中にしかない。エデンの園の番人であったという人間の顔と翼を持ったケルビムも、彼に守られていた命の木も存在しない。書き続けられるのは、悲歌すなわち死者を悼む歌。詩人は失われた楽園「について」書くとは言わない。失われたすべての「ために」書くと言う。作者は常に利他的な生き方をしている人で、彼に助けられ、感謝している人々は少なくない。そのことを思い出す時、この「ために」は詩人の本質に近づいて行き、言葉を越えた輝きを放つ。
作者は宗教だけを専門に書く詩人ではない。この作品は旧約聖書をモチーフとした詩華集を編むために書かれたのである。だが、立てられた十字架のように、この詩は一つのゆるぎない精神を掲げ、宗教を越えて、読む者を強く打つ。
人間の心の深みを表現する時、詩行には、統合され難い奥深さが生まれる。それは存在そのものが抱える光と闇だ。「はじめてのイブ」は、あらゆる光と闇の母であり、また、今も土を掘る者たちに寄り添う妻でもある。時にその気配を感じる者もいるかもしれない。だが、曇りのない精神にその姿を映し、書き留めることのできる者はいない。この詩人を除いては。