デンシンバシラのうた 草野心平
そんなときには。いいか。
デンシンバシラとしゃべるんだ。
稲妻が内部をかけめぐり。
丸い蜜柑がのけぞりかえる。
そんな事態になったら。
白ちやけて。唸るようにさびしくなつたら。
人じやない。相棒になるのは。
夜中のデンシンバシラだ。
デンシンバシラはゆすつても。
デンシンバシラは動かない。
手のない。指のない。見えない腕で。
デンシンバシラは。しかし。
お前を抱くだろう。
ありつこない。そんなことが。
そんなことの方がまだあるんだ。
ちぐはくで。ガンジガラメで。
遠吠えしてもまにあわない。
そんなときには。霙にぬれて。
夜中の三時のデンシンバシラだ。
詩集『マンモスの牙』より
誰しも途方に暮れ、何をどうすればいいか、どこに感情をぶつければいいか分からなくなるときがあるだろう。何らかの理由で衝撃を受け、精神の崖っぷちで絶望することがあるだろう。そんなときの心の在り様が、この「デンシンバシラのうた」には描かれている。
出だしが鮮やかだ。事情の経緯を完全に省いて、いきなり「そんなときには。いいか。」で始まる。読者も、作品からグイと迫られる。続いて「デンシンバシラとしゃべるんだ。」と、何とも尋常ではない展開を強要される。こうした強引さによって、発話者の追い詰められた切迫感が読者にも伝染してくるかのようだ。
第二連もすごい。特に「丸い蜜柑がのけぞりかえる。」という表現の見事さ。稲妻でのけ反るのが、丸くてみずみずしいはずの蜜柑であるところが、ありえないほどの衝撃があったと思わせるし、また、本作品の重要な要素であるユーモアを具体的にイメージさせてくれる部分だ。いまユーモアと書いたが、むろん、ギリギリのところに追い詰められ、転落のする一歩手前であるかのようなユーモアというところが、この詩をより豊かなものにしているのは間違いないだろう。
そもそも「夜中の三時のデンシンバシラ」だ。デンシンバシラは、いうならばただのデクノボウ、犬が小便をかけるような存在だ。そんな存在に、壁に頭をぶつけるように感情を叩きつけ、「相棒」になってもらうしかない状況。第五連では言葉の論理も破綻している。つまり、これは悲劇の喜劇なのである。そして喜劇の悲劇でもある。