あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ 吉川宏志『青蝉』
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言わずと知れた名歌でありますこの歌は、石川美南さんが主催する「ゴニンデイッシュ」という企画の、第一回目に取り上げられています。掲載が2009年の8月で、全くタイムリーな話でなくて、すみませんが。
毎回5人の論者が、各々の視点で一首評を書くというのが企画の主旨で、第一回は、我妻俊樹さん、石川美南さん、川野里子さん、チェンジアッパーさん、松澤俊二さんの5人が筆を執っております。
「短歌とは何か?」私はこの素朴かつ深遠な問いについては特に思いを悩ませたことがありません。「何でもいい」としか思っていないからです。
ただ「短歌を語るとはどういうことか」「批評とは何か?」というのは、歌をはじめた当初からずっとぶつかってきた疑問であり、今も分かるような分からないようなでよく分かりません。
さて、私としましてはこの「ゴニンデイッシュ」という企画を読むことを通して、論者が短歌についてどう語ったかを見ながら、短歌について語るとはどういうことなのか、少しでも考えることができればと思います。本当にそういうものになるかは書いてみないと分かりませんが。
ひとまずは我妻さんの評を取り上げたいと思います。
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ゴニンデイッシュという字面を見つめた時、「何だか美味しそうだ」という印象を持ったのは私だけでしょうか?
デイッシュの部分が、ディッシュ(メインディッシュのディッシュ)、それからデニッシュ(パンの種類)に似ているからというのが、たぶんその理由です。実につまらない理由ですが、こういう印象というのはなかなか侮れないものがあります。
ついでにいうと「ゴニン」は字面だけなら「ゴハン」に似ている(いや、似てないか)とか、そこまで言うと言い過ぎで、無理に話を作っている感もありますが、そうやって無理に作られた話が面白い場合もあるように思います。
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我妻さんは「あさがおが朝を」という二重のリフレインにまず注目しました。
①「あさ」と「朝」というリフレイン(A)
②「あさがお」と「が朝を(があさお)」のねじれたリフレイン(B)
です。
AとBは別のリフレインではなく、Bの一部分がAなのですが、Bのリフレインは巧妙に隠蔽されています。
第一に、「あさがお」→「があさお」という語順の操作、第二に、「お」→「を」、「あさ」→「朝」という表記の操作。
この二つによって、Bは隠蔽され、そのことで相対的にAが顕現する。
「あさがおあさがお」では一つのリフレインでしかないものが、「あさがおが朝を」とされることで二つのリフレインになる。
氷山の一角と氷山という関係性が生まれることで、リフレインが二重化するのです。読者はまず一つ目のリフレインを見つけ、それから時間差でもう一つのリフレインの存在に気づく。これは、二重底のリフレインなのです。
ただし、読者がそれをうまく認知してくれることが条件になります。
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しかし二度発見されるには、読者に気づかれる必要があります。
Aというのは氷山の一角に過ぎず、氷山の全体図はBであるということを察知することを歌は要求しています。
ちなみに察知するにしても、二種類の察知の仕方がある。この二つをPとQとしましょう。
Pは、その二重構造をはっきりと認識し、それを作者が仕掛けたレトリック=トリックとして把握すること。
Qは、それが二重構造のリフレインであるということには無自覚だが、何か違和感を覚える、あるいは何らかの印象を受けること。
ゴニンデイッシュを「美味しそう」だと思うのがQ、その理由は「デイッシュ」が「ディッシュ」や「デニッシュ」に似ているからだと考えるのがPです。
読むというのは、QからPへの移行であるという仮説を立てることができます。
一読し、「何か引っかかる」というQを感じ、その理由を考えてPに至るというもの。
ただし、必ずしも順序がQ→Pであるとは限らず、Pが先にあり、そこから遡ってQが作り出されるというパターンもあります。「デイッシュ」と「ディッシュ」の類似に気づき、そこから「美味しそう」という印象を引き出すというもので、これには、
①事後的ながら本当に美味しそうと感じてしまうパターン
②本当は思わないのだけど、そう思っていると思いこんでしまうパターン
③思わないけど、感想の口上として何となく(あるいは意図的に)使ってしまうパターンの三つがあります。
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Qがまだ読み手の視点が作品の影響化にある状態だとすれば、Pというのは作品に対してある程度俯瞰的、メタ的な視座を持っていると言えます。もちろんメタ的な位置に立ったからと言って、作品の影響力を完全に免れられるわけではないですが、Qの位置よりもPの位置の方が、冷静に作品について語ることができます。まあ自明と言えば自明のことですが、こういう自明なことに改めて触っていきたいのです。
QからPへの移行。自身の認知がたどった軌跡を反復するように、我妻さんは二重底のリフレインの仕掛けについて語ります。それは単なる解説ではありません。そこには呪術があります。我妻さんはそのリフレインを「狂気」、「短歌の狂気」によってなされたものと指摘するのです。
「狂気」という言葉を用いるには、一本の境界線とそれをまたぐ矢印を用意しなければなりません。
つまり「正気」と「狂気」があって、「正気」の側から「狂気」を覗く必要があるということで、それを「狂気」と呼ぶことは、おのれを「正気」と位置付けることでもあります。
我妻さんの語りはその線を引く儀式なのです。
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ところで、「あさがおが朝を選んで咲く」この表現には二通りの解釈があります。
X:数ある朝からこの朝を選ぶ
Y:一日の中で朝という時間を選ぶ
です。
我妻さんはXが適切な解釈であろうと述べています。根拠ははっきりしません。ただ、その解釈の方が我妻さんにとってしっくりくるのでしょう。
ここで大事なのはどちらの解釈が正しいかではありません。二つ以上の解釈がある、つまり、
①意味に迷いがある状態から、解釈を経て、意味が選択され、確定するという「読者の読みのプロセス」
と、
②あさがおが無数の朝の中からこの朝を選んで咲くという「表現されている意味内容」
が、相似形を取るということです。
(この相似形は、我妻さんにとっては誤りとされるYの解釈を選択した場合にも成り立ちます)
読む行為と読まれている内容の呪術的な相似。これもまた「短歌の狂気」であると我妻さんは指摘します。もちろんそういう風に論じるのも呪術です。
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では、その「短歌の狂気」とは何か。
それについて詳しい説明がなされているわけではありません。
ただリフレインに関しては、リフレイン一般に関してこのように語られている箇所があります。「すでに短歌化しているはずの言葉が、さらに短歌に近づこうと身をよじるかるい狂気の感覚がリフレインにはある」
この歌における「狂気」に関しては、そこから推測するしかないのですが、それは短歌の短歌化の欲望ではないでしょうか。
短歌はただ31音で構成されているだけで短歌ですが、それ以上に短歌的であることができる。
短歌的というのを定型的と置き換えてもいい。
ルールに縛られた言葉が、さらに自分をルールでがんじがらめにするようなそんな感覚です。
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しかしその「狂気」は、作者あるいは作品の側にのみあるものでしょうか。
一首評における我妻さんの立場は、徹底して「正気」であることです。
おのれを「正気」とし、「狂気」が振るう猛威を徹底して俯瞰し、分析し、言葉に還元する。
しかしそれは実は「正気」ではなく、「批評の狂気」なのではないでしょうか。
どこまでも深く精密に読み込もうとすること。おのれが感じた印象をすべて言葉に還すこと。あらゆるQに対して敏感であり、それを余すところなくPに移行させること。
その「狂気」は何を欲望するか、それはおのれであるところの批評が、批評対象自身でとなることを、欲望することです。
つまり語りつくすことで、作品と同じになることです。
作品に仕掛けられたトリック=レトリックの巧妙さを指摘することは「そこまでやるのか」という戦慄を読者にもたらします。しかしその戦慄は、「そこまで見破るのか(解釈するのか)」ということの裏返しです。技巧の驚異と、技巧を語るまなざしの驚異。その驚異は相似形を描きます。
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歌と評が同じ姿をしているということに関しては、もう一つ面白い指摘をすることができます。
我妻さんの一首評は6つのパラグラフに分かれています。それぞれを①②③④⑤⑥としましょう。
①と②はリフレインに関して、③と④は読みのプロセスと意味内容の相似について、それぞれ言及しています。注意したいのはここまではすべて「あさがおが朝を選んで咲く」という3句目の2文字目までに対する言及だということです。
そしてそれに続く、⑤のパラグラフは、以下に引用する一文のみで構成されています。
「だが続く「ほどの」で直喩に回収されることによって、ここまでに見たものはすべてひとつの括弧にくくられてしまう」
これは「ほどの」という3句目3文字目以降への言及です。
続いて⑥なのですが、ここでは最初に4句目と結句への言及が行われます。
それは非常にあっさりしています。
「下句では作中主体の人生が前景してくる」
なんと以上なのです。
これまでの狂気的なまでに論理的で分析的だった語り口とは一変し、読者は今までの「狂気」的な語り口がすべて括弧にくくられたような印象を受けてしまう。それくらい①②③④と⑤⑥には落差があるのです。
ここでも我妻さんの語る歌の内容と、我妻さんの評自身は、呪術的に相似しています。
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我妻さんは最後に「ほどの」の効用について指摘します。
上句の狂気を括弧にくくり、それを下句の人生に移行させる効用を持つ「ほどの」。
「何より印象的なのは上下句の危ういバランスに軋みをたてる「ほどの」の演じるアクロバットであり、いいかえれば「ほどの」をここに置くことのできる存在、一首の言葉を操作し演出する作者の隠しきれぬ才気こそが真の主役だったことがあきらかになるだろう」
評はここで締めくくられます。
そしてここで歌と評は完全にすれ違います。
「ほどの」のアクロバット。そのアクロバット自身になるどころか、そのアクロバットについて補足説明を加えることさえしようとしないからです。
「狂気」を描き、「人生」も描く、その間に危ういバランスを取っているという歌に対し、一首評はひたすら「狂気」のみを語り、その先については投げ遣りな説明しかせず、構造のみをぽんと伝えるだけです。「狂気」は再演されるのに、それが括弧にくくられた途端に幕が引かれる。それが死であるように。
しかしそれは我妻さんの能力あるいは資質の限界なのか。
そうではなく、私たちは「才気」という言葉にある種の皮肉を読み取るべきなのかも知れません。「狂気」に自覚的にとどまる者から、「人生」へ歩み出した者へと向けられた。
などと書くと無理に話を作りすぎなのでしょうかね。
(石川さんに続く)