「過去」 小川三郎
なにもないんですねえ
あなたの部屋には。
ええ、夕暮れしかありません。
夕暮れになれば
美しかった桜も
なくなってしまう。
遠くから流れてくる音楽は
タイトルが思い出せませんから
なくなってしまう。
誰の記憶だか知りませんが
そんなものが
床のあちこちに転がっていて
拾い上げて目を凝らしても
それは私の記憶ではなく
だから
なくなってしまう。
私の部屋には
なんにもないのです。
『コールドスリープ』(2010年思潮社刊)より
この詩を写していると、自分が書いた詩のような錯覚にとらえられた。私(有働)は自分の詩を思い返しているのだ。夕暮れの部屋の床に落ちている記憶。私 (有働)はそれを自分の記憶であると少しも疑っていないが、小川は誰の記憶か知らないという。主体が自分であることさえ放棄してしまっているのだから、怖 い。
ないものが切ない美しさで夕暮れに立っている。私(小川)には何もなく、何もない部屋で、記憶さえ失って見つめている、何もないものを、何もない部屋で。ただ一日が空しくすぎて、夕暮れが来た。
私(小川)には記憶というものがないから、自分がどういうひとかを説明することができない。だが夕暮れにひとり呆然として、昼間桜が咲き、音楽が流れたこ とはうっすらと思い出せる。四肢にちからが入らず、空腹さえ自覚できない。生活とか、家族とか、仕事とか、ボランティアとか…それらは遠い薄れかけた記憶 の項目だ。私がないから、私の所有物もない、私はかろうじて、だれた言葉をだれた意識からひっぱりだしているにすぎない。
ぽかんとして、ゆえに、口に手を当てて、くすくす笑いたくもなる。このような詩境は尾形亀之助の最晩年の詩でたしか経験したと私(有働)は思い当たる。
尾形は初めから無気力だったのではない。資産家の息子で、実家の豊富な資金を湯水の如くつぎ込んで芸術の創造を試みた。美術をやり、詩をやり、つまり 「美」の創造に邁進した。その挙句の虚脱である。あまりにもひたむきに求めすぎたゆえの脱力である。晩年は雨戸を半分閉めたまま、火鉢の灰をつついて一日 を過すさまが、わずかに詩に書きとめられている。哀しい、呆れた、ぽかんとした人生の結末である。
小川の詩は尾形的な資質を備えなが ら、さらに下った時代の人としての老成が見える。達観の手前で踏みとどまり、無欲であろうとの努力もしない。努力をしないから挫折もしない。何になろうと も何であろうともしない。人生に目的や希望をかぶせることをしない。会ってみれば物静かな青年である。自分の詩についての意見に素直に耳を傾けている。
だが、小川にはまた別の側面もある。同じ詩集の中の「ルージュ、コーヒー。」では愛のドラマを極めて知的に正確に描写する。その怜悧さが人を唸らせる。小 川のような資質の男性が愛の問題にどんなアプローチを見せるのか。はたしてナイフのように鋭く相互の関係を切り裂く。驚くべき対等性と理知性が1冊の哲学 書を熟読したかのような残酷な透明感を残す。こちらのほうが詩人の資質を全反射する作品と言えるだろう。とぼけた味わいの上掲作品の奥にさらに深々とした 世界が横たわっている。