角膜に受けし小さき擦過傷もてば世界はみな痛いたし 村木道彦
『存在の夏』(2008年・ながらみ書房)より
村木道彦が歌壇からふっつりと姿を消して、どれほどが経っただろう。総合誌『短歌往来』誌上にその作品を少しずつ発表するようになって、歌集としてまとまることを、私はずっと待っていた一人であったと思う。2008年の夏(村木道彦の歌には夏を舞台にしたものが多い、この歌集の出版も夏であった)にこの歌集を手にしたときの歓喜といったらどうだろう、ある年代以上の短歌ファンには非常に感慨深いものであったのではないか。
村木道彦は1942年生まれ。旧華族(男爵家)出身、慶應義塾大学文学部という瀟洒な、インテリな肩書きは、この人の歌風と同期しているように見える。慶大在学中の1964年、歌誌「ジュルナール律」上に衝撃的な作品を発表して、歌壇の寵児となる。だが、編集者・中井英夫の「君はショートランナーだ」という言葉に作歌を止めてしまったのだ。『天唇』という歌集を残して。
現在の村木の歌を読む。読むというより年を経て逢う、という感じである。中にこうした歌が収められている。
参列の側からさるる側となり 烈日炎暑 誰れの出棺
日盛りの激情としてカンナ咲く はるかなれ若かりし歌声
誰が家の犬かはげしく吠えかかるわがよるべなき生を咎めて
いずれも掲出歌と同じ一連「存在の夏」より。ここで描かれているのは、自らの若き日の「死」であろう。
烈日炎暑に出棺されるのは、自らではないか。はるかなれ、と祈りを投げるのは自らの若かりし歌声(短歌)ではないか。
さらには誰かの家の犬にも吠えられてしまうような「よるべなき生」と断じている。
ここにあるのは若さへの懐旧ばかりではない。自らへの悲哀と哀憐、そしてもう取り戻されないであろう日月への悔悟である。だが、村木はそれをも是として、歌壇を離れたわけではなかったのか。「ノンポリティカル・ペーソス」という皮肉めいた評論の中に、学生運動さかんなりし当時の、思想をもつことの優位性を否定する立ち位置を表明していたのはこの人であったはずではなかったか。既存の価値観への否定、ノンポリであること、個々の生を追求すること、それはこの人のアイデンティティでもあったはずである。しかし、この現在の歌群の立ち位置は、過去の断罪、葬り、存在についての自問が再びなされている。すべては時代の流れであったなどと言い訳せずに。村木はこの歌集の後記のなかでこう述べている。
「私」という個にこだわり続けて来た僕は、今になってようやく「私」を一旦「他者」として突き放すことが必要だと思うようになった。青春という時期を過ぎてなお、自分という個の存在に耽溺することの不毛が、少しずつ見えてきたからである。見えてくるための十余年は、僕が短歌表現から離れていた時期である。
掲出歌の「世界はみな痛いたし」と認識しているのは、いつからか、と考えてみる。それは「角膜に受けし小さき擦過傷もてば」すなわち、角膜に小さな傷を負うてからである。無傷な両眼で世界の痛みを「見る」ことはなかった。気がつくことはなかった。傷を得てはじめて世界がみな痛々しくみえてくるというこの把握こそ、中年となった村木がたどり着いた境地なのかと思うと胸を衝かれる。
われらみな「時間の檻に鎖されたり」告げゐて険しこの空の青
人間のもつ在り方のひとつにて「われ」を忘るるために働く
嵌むるための時計外して寝に就く かくて「千夜」も「一夜」に同じ
日月はかくて確実に過ぎゆかむ風呂を沸かす日風呂沸かさぬ日
連を超えて、自らの生を検証する歌がある。これは彼の過去の「総括」であるのだとも思う。過去を総括し、あらたな表現の野に村木は何を育てるのだろうか。かつて〈水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑〉と詠った日々、「麦畑」を金色になびかせてほしいと思う。