日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/06/28)

あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ 吉川宏志『青蝉』

(承前)

 1
 この前、『帝国ホテルの不思議』という本を読みました。
 日本を代表する高級ホテル。その華やかさの裏に隠された一流のこだわりというやつを、徐々にあぶり出していくというのがこの本の趣向なわけですが、なかなかこれがすごい。
 たとえば客室清掃のエピソードなんかが印象に残っているのですが、部屋のにおいに人間の嗅覚が慣れるのは、3秒なのだとか。
 清掃員の鉄則として、ドアを開けたら、3秒以内に部屋のにおいの元を察知し、それを除去しなければならない。たばこや香水はもちろん、どんなかすかな匂いでも残してはいけない。ほんの僅かでも前のひとが滞在した気配を残しては、サービスとしては失敗なのだそうです。
 その他、ドアマン、ベルマン、フロント、レストランスタッフ、専属の神主や、宴会用の氷彫刻職人まで、様々なサービスのスペシャリストがでてくるのですが、その仕事へのこだわりがさりげなく半端でない。
 他の具体例はすごかったことしか覚えてないので、詳しくは本を手に取ってみてください、では中途半端なブックレビューにしかならないのですが、もちろん結論はそこではなくて、松澤俊二さんの一首評(http://tanka.yaginoki.com/?eid=778935)ですから大丈夫。
 順番が前後していますが、あんまり深い意味はありません。単にチェンジアッパーさんのプリントアウトを自宅に忘れてきた状態で、外で原稿を書いているからです。

 2
一読後、さわやかな、ソフトなイメージを受け取った。だが、それは計算づくで、あさがおとあさがおとが結ばれる強靱な意志と計画とが隠蔽される結果となっている。その修辞、措辞は大変に的確で、注意深く練られている。読者に手渡されるイメージとは全く異なる、表現レベルでの執念が、かかる秀歌を支えているのだろう。
 評の後半部分を縮約してみました。
 批評というのは、どうもAとBの二つのものを対置したり、そのAからBへ移行するといった動きで成り立っているようなところがあります。
 たとえば我妻さんの評では、「狂気」の対岸に「技巧」を置くことで一本の直線を引き、その直線に「人生」を対置して作り上げた三角形のすべての辺と角に対応するもの、つまり「ほどの」という中心点を最終的に見出すという構成になっています。
 石川さんの評では、最初に二つの解釈が並列されていました。そこに「私」を向かい合わせることで一方を選び取り、「向日葵や薔薇」(より詩的な花)と「朝顔」(世俗的な花)の比較から、読みを紡いでいきます。
 川野さんの場合はもっと目に見える形で、第一パラグラフの景(あさがお)から、第二パラグラフの景(薬剤師)への移行が文中のドラマとなっています。
 では、松澤さんは何をしているかというと、歌における二つの顔、仮面と素顔の関係を暴いています。
 「さわやか」「ソフト」「やわらか」「あわい」それらで形容されるイメージというペルソナ。
 そして「あさがおの強靱な意志と計画」という素顔。この素顔は、さらにもう一つ外の素顔である「表現レベルでの執念」と無媒介に連結しています(この連結については、十分に説明されていないような気もするのですが)。
 ここで面白いのが、「読者に手渡されるイメージとは全く異なる」という部分で、ここでいう読者は「仮面しか見ない人」を意味するのです。
 この人物はホテル等において、サービスを享受するのみで、サービスの裏側に隠れた努力やこだわりを感知しない人と相似形を描きます。
 サービス業において、あくまで提供するのはサービスであり、技術はそれを遂行するための手段でしかありません。技術に対していかなる執念があろうと、お客様に見せるべきは、その執念ではなく、その執念を覆い尽くす笑顔の仮面です。
 もちろんだからといって仮面の下の素顔が隠すべきもの、忌むべきものかといえば、そうでもなく、「さわやかに見えるけど、実は執念レベルで技巧を凝らしてるんだよ」という説明は、観光地で裏話をして客を楽しませるガイドさんのそれと同じ効果をもたらすものであり、エンタテインメントとして成立する余地を持っています。
 ただその「観光客」(つまり「仮面しか見ない人」)は、どこにいるのでしょうか?

 

 3
 作品と批評は両輪なんて言われたりして、私たち歌を作る人たちは、批評もしてきました。
 また短歌は昔から純粋読者がいないということで有名です。どれくらいいないのか、本当にいないのか、と言われたら分かりません。様々なメディアに短歌が顔を出すようになって、その状況が全く変わっていないということはないと思います。
 けれどこれは私の主観ですが、短歌を作っていて、出会うのは圧倒的に歌人であるということ。短歌を一番読むのは歌人というのは、今も昔も変わっていないのではないでしょうか。
 これも主観ですが、歌人というのは読み手としてはプロです。その中に「仮面しか見ない人」はごく少数ではないでしょうか。だから作品にある意図を込めても、その意図に影響されるのではなく、その意図が俯瞰視されることになる。サービスのたとえでいうなら、目的であるサービスではなく、その手段である技術(あるいは感性等)に注目されてしまう。
 短歌を作るというのは、言ってしまえば、「サービス業者しかいない世界で繰り広げられるサービス合戦」に巻き込まれてゆくということではないでしょうか。もちろんそれがすべてではありませんが、そういう側面はなきにあらずであると思います。
 そのような世界観において、「仮面しか見ない人」=読者というのは、言葉の上にしか存在しないもの=幻想です。そして、ある種の希望でもあります。
 歌からイメージを享受し、歌のよさを味わい、技術の高さに関してはその気配のようなものを感じつつも、その構造自体を把握してしまうことはない、そんなまなざし。
 そのまなざしにずっと留まっていられる者としての「読者」。
 それは読むということのある意味での理想の境地ではないでしょうか。
 汚れを知らない無垢なもの。純粋なもの。
そんなものは幻想であり、実際そこには無理解と敬遠のみがあるのだろうとしても、「一般の読者は……」と思いを巡らせる時、そこには淡い祈りのようなものが静かに息づいている。
 こんな考え方が、私だけなのか、誰もが抱くものなのか、それを知りたくてこの文章を書きました。

(続く)

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