日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2012/07/09)

九十八番 きつね

左持

川はきつねがばけたすがたで秋雨くる 外山一機

晴れやみごとな狐にふれてきし祝日 田島健一

並べてみるとよく似たところがある両句。どちらも「きつね/狐」がキーワードになっているし、活用形は違うが「来る」の語が使われている。しかも韻律も七七六の破調で共通じゃないの。ちなみに、左句は『新撰21』に収録されたこの作者の百句のうちにあって、代表作のひとつと目される作品。右句は「新撰21竟宴」の句会で最高点を取ったのではなかったかしら。出生の事情にも因縁があるわけである。

両句いずれの狐も実体というよりは言葉の内部、イメージ上の存在であるが、左句のそれは説話・俗信に登場するフォークロア的な存在としての狐であり、右句のそれは純然たる動物としての狐というニュアンスがより強いように思う。

もう少し細かく見てみる。

左句は、助詞「で」の後に意味上の区切れをみとめるのが素直な読みだろう。つまり、「川は狐が化けた姿である」「秋雨が降り始めた」と分解し得るものとして受け取る。切字を使って「秋雨や川はきつねがばけたすがた」と再構成することも可能だろう。しかし、実際には二つの要素が一つのセンテンスにジョイントされており、そこからうねるような流動的な韻律が生じている。それは川、そして秋雨を運んでくる大気の流れの気配を喚起すると同時に、ねじれながらずるずると続く王朝以来の純粋な和文のそれに地続きの呼吸を感じさせる。もちろん「川は狐が化けた姿である」というナンセンスで童話的な着想の面白さは言うまでもない。多くの説話で狐が化ける対象は人間であり、最も代表的な信太狐や九尾の狐は美女に化けて人間の男を惑わせる。ところが掲句ではなんと眼前の川が、狐の化けたものなのだという。その吊り合いの取れなさ加減に驚かされる一方で、じつは川は女性身体とアナロジーをなす存在であり(安東次男「『澱河歌』の周辺」を参照せよ)、葛の葉伝説・玉藻の前伝説を媒介にすれば、川/女/狐の三者はごく自然なアマルガムをなす。「秋雨」もまた巫山雲雨の連想から、「性愛/女」のメタファーの性格を帯びる。どこかしどけない立ち姿のうちに、童夢と性夢を渾然とさせたかの如きノスタルジーを感じさせる左句の背後には、このような言葉の働きが潜在している。

しめやかに雨に降りこめられた左句に対して、右句は「晴れ」しかも「祝日」。この句が披露された新撰21竟宴の開催日は二〇〇九年十二月二十三日の天皇誕生日で、確かに晴れていた。改めてこうして見てみても、場にふさわしいよく出来た挨拶句であり、当日の最高点句であったことも宜なるかな。さらに言えば、「みごとな狐」はもしかすると、他ならぬ左句に感心して出てきた措辞なのかも知れない。とはいえ、こうした想像される一句成立の事情はいちど括弧にくくって読んでみよう。すれとこの句は、よく晴れた祝日の空気を、まるで「みごとな狐にふれて」きたような感じがすると、比喩で表現したものということになる。狐は左句のところで述べたように伝説や寓話によるキャラクター付けが強くなされた動物であり、右句の狐にもその要素が皆無とは言わない。しかしそれ以上に、例えば近代の日本画家たちがしばしば絵にした、端的に美しい動物としての狐と受け取った方がこの句にはよりふさわしいと思う。キャラクター付けされた狐とした場合、「みごとな」のニュアンスに余計な屈折が生まれてしまうからだ。挨拶句である事実を度外視しても、「晴れ」「祝日」にそんな屈折はなくもがな。「みごとな狐にふれて」という表現の痛快な飛躍が煽り立てる晴れやかな祝祭性を味わえば充分であるし、切字「や」を使い、上七字余りで荘重に始まる声調もこの解釈を支持しているものと信じる。

以上の通り、両句共にすぐれている。持。

季語 左=秋の雨(秋)/右=狐(冬)

作者紹介

  • ●外山一機(とやま・かずき)

一九八三年生まれ。「鬣TATEGAMI」所属。掲句は、『新撰21』(二〇〇九年 邑書林)所収の「ぼくの小さな戦争」百句より。

  • ●田島健一(たじま・けんいち)

一八七三年生まれ。「炎環」所属。掲句は、『超新撰21』(二〇一〇年 邑書林)所収の「記録しんじつ」百句より。

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