今朝母の息絶えていし浴槽に沈めば温もりゆきぬわが身は 今井恵子
『やわらかに曇る冬の日』(2011年 北冬舎)より。
この歌集は今井恵子の『渇水期』に続く第五歌集にあたる。つねに鋭い短歌観を発信し続けている今井らしく、歌もまた歌集ごとにあらたな実験をしている。
ここ最近の今井のタスクは短歌における和文脈(和語・漢語)の在り方についてだが、この歌集においてはその他にもオノマトペや韻文の対置としての散文の在り方についてなど、様々な実験が収められている。今井はこうした実験について、「人間にとって言語はどのようなものかという興味から」(あとがき)であり、それは短歌を始めた動機でもあり、不変のテーマでもあるという。
しかしながら読者は、この歌集において、ひとつの大きな題材を読む。今井の母の死である。今井や今井の家族における、老いた母親の介護は既に長期間にわたっており、ついにこの歌集を編む期間において、その母との死別を経験する。母の死の顛末、葬りなど一連のこころの流れが克明に歌にされているのであり、今井の家族観、死生観なども同時に読み取ることが出来るだろう。
掲出歌は、介護していた母が家族の留守中、入浴中のまま、突然亡くなっているのが今井自身によって発見されるという衝撃的な出来事を端として出発する一連に収められている。
果てしなさを感じていた介護、年老いながらも永遠に存在するかに見えた母は、あっけないほどに静かに亡くなってしまう。今井は母の亡くなったその浴槽に、自らの体を沈める。温かい湯にくるまれる。この実感は生者のみが感じる感覚なのであり、今井の生の描き出し方はなんとも生々しくも的確で、生と死の輪郭が鮮明に浮かび上がってくる。
ひきあぐる母の身体 浴槽の湯に温もるをわが腕にして
しかばねの母をベッドへ運びきて頭ぐらりと枕へ落す
手のひらもて触れればまこと冷たくて母の死顔 泣きながら撮る
みずからの形にもどりゆくのだろう夜闇の中にて紙の音する
母の死は大きな悲しみではあったけれども、家族という単位においては長年の介護から「解放」されるという瞬間でもあったのだ。
〈みずからの形にもどりゆくのだろう夜闇の中にて紙の音する〉の歌はその意味で非常に暗示的である。今井もまた娘としての立ち位置、母を介護、扶養する責任や感情的な呪縛から、「自分自身」へと解放されたのだろう。「みずからの形にもどりゆくのだろう」とはなんの属性もない、今井自身であるのだ。
玄関のここにこうして手を置いて母が見ていた暗き靴底
シャンプーを流さんとして屈むとき後ろに母の声あるごとし
夜の闇に重たき芯のあるごとし階下に母がわれ呼ぶごとし
今井は、ことあるごとに母を思い出す。思い出すというより、そこここに母の気配を感じ取る。そうした歌が各所に置かれる。上に掲げた歌などは、ある意味、同じ発想の類歌だともいえて、歌集としてまとめるときに内容的に重複していてどうなのか、とも気になるのだが、それは計算されて排除されたり収録されたりするものではなく、今井の率直な心の記しとして歌集に置かれたのだろうとも思う。
親の存在、娘としての自身の存在、そうした部分にも分析の目を持って、率直に歌として表していった今井自身の生の姿勢に、非常に好感を持って読んだ。