動物の営む心的な生活面には、表象の体系(システム)が欠けているが、
人間もまた、厚みある感覚生活を目いっぱいに生き、消化の運動
にしたがい、決った時刻に物を食べ、群衆のなかでヒツジのように
集団的な歩みのリズムを受け入れ、食物にたいする味覚も魚類と
同じ器官に基づいており、また意識が一つ一つの運動に動員
されなくても、筋肉が緊張したりゆるんだりする、というように、要するに人
間という動物機械はすべて、最終的には知的統合にいたる
さまざまの水準で働くが、その水準は他の生物と同じである。
――アンドレ・ルロワ=グーラン(荒木亨・訳)『身ぶりと言葉』2012筑摩書房、p440
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ルロワ=グーランを読む日々の中で、短歌についてつらつらと考えたことを。韻律を主なテーマに、書かれ、読まれる作品ではなく、書き、読む人間の方に焦点をあてて。
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たとえば3首(?)目などは、区切ってみるなら58587で、ほぼ定型です。「のように」と直喩のかたちで結ばれるのもいかにも短歌らしい。後半の歌(?)は、あまりに破調が過ぎますが、けして短歌のように読めないということはないと思います。
ふと発せられた言葉や目にした文字列が、57577に近いリズムを取っていることに気づいた時、思わず反応してしまうということは、短歌を作る人には誰にでもある経験ではないかと思います。それを敢えて口に出すか、気づかなかったことにしてスルーするかは別として。
それは異邦の地で同国人と出会うようなものです。相手のパーソナリティ(作品として見た時の質)などはさておいて、遠さの中の近さそれ自体に親しみを感じるのです。
もちろんこのような作用が起こるには、それだけ普段から短歌定型に親しんでいることが必要ですが。
また私がこのように明らかに短歌でない文字列を拾ってきて、ここに掲出していることに違和感を覚える方もいらっしゃるかも知れません。短歌でないものに短歌のリズムを見出すというのは、領域の侵犯になることだからでしょうか。侵犯する行為は抵抗感とか罪悪感以前に、気恥しさを伴うものです。
また、集中したいけれど周りが気になる時に、つい指で机をコツコツやってしまう。自分のリズムを刻むことによってテリトリーを守ろうとするのだけれど、その主張自体が他人のリズムを損なうことであること。それに近い作用がこの場所で起こっている、ということも考えられることかも知れません。
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短歌を作ることも読むこともなく、それどころか活字の本を読むことさえ稀な友人に、試みに自作を見せたことがあるのですが、なかなか興味深い反応がありました。
これからも失う日々の缶切りを使えるようになったでくのぼう
見せたのは上記の歌を含む連作なのですが、この歌について意見を聞くと、「どうやって読むのか分からない」と言われたのです。こっちで区切り方を教えて、やっと「なるほど」と言ってもらえました。内容の云々以前に、読み下すということで行き詰ったのです。
これからも 失う日々の 缶切りを 使えるように なったでくのぼう
初心者の歌を見ると、このように句ごとに空白があけられていることが非常に多いように思われます。読みやすいようにという気配りがあってのことでしょうが、短歌を読み慣れた目からすると、大抵の場合は拙く映ってしまいます。
しかし、その目線は何に由来するのでしょうか?
・「一字空け」の効果が不用意にもたらされてしまったり、言葉同士のつながりの効果が得られなかったりという技術的な次元。
・自分と違うもの、劣ったものに対する攻撃性もしくは優越感を保持するためという心理的次元。
基本的には、両方の次元に由来するものと考えられますが、どちらが主でどちらが従なのかという風に考えてみると面白いのではないでしょうか。
特に自分のことと考えると、自分が何よりも短歌読者であるのか(前者)、それとも短歌作者であることが先立つのか(後者)、というような自己分析も可能となります。
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それゆえ民族の様式は、集団に特有な形や価値やリズムの引受け方であると定義できよう。
――ルロワ=グーラン、p437
短歌に慣れることは、定型に慣れることに始まります。頭の中に定型のリズムがしっかりとあって、それをいつでも取り出して目の前の文字列と対照できること。
ごくごく当たり前のことなのですが、このことを考えると短歌というのは実に変なものなのだなあ、という感慨に至ります。短歌を読むひとは、目の前の言葉を読んでいるのではない、ということになるのですから。
では何を読んでいるのかと言うと、定型と言葉の関係です。韻律面では、理想的なリズムと、実際のリズムの差異をこそ味わっているのです。内容面でも、(「私性」に代表されると思いますが、)様々な読みのコードがあり、それらと内容との差異が読者において問題にされます。
短歌である時点において、すでに半分は語り終えられている。あくまでも読者の共有する暗黙知にどのような作用をもたらすか、ということだけが問題になる。
背後にあるのは読者への信頼であるように思われます。
言い尽くさずとも読者は理解してくれるだろう。なぜなら短歌にはこのような暗黙知があり、私はこの歌にその暗黙知をくすぐるような技巧を凝らしたのだから。けれどその信頼というのは排他性の裏返しではないのか、という気もしてしまいます。
歌人は歴史を学べといわれます。目の前にある一首の短歌は先人の作歌の積み重ねの上にあるのだから、というロジックには魅力的なものと危ういものを同時に感じます。まさに歌人の「民族」的な側面が浮き彫りにされています。比喩かも知れませんが、案外「短歌民族」という風に考えた方が短歌は理解できるのではないかという気がします。そのような外側からの理解が何の意味を持つかは別として。
夕暮れと最後に書けばとりあえず短歌みたいに見えて夕暮れ
松木秀さんの『5メートルほどの果てしなさ』から引きました。短歌みたいに見えるのは、「こう書けば短歌的」という暗黙知と、テクストの関係によって生じているものです。短歌のイデアと目の前の文字列の照合、類似と差異が、一首の歌をそこに立ち上がらせる。
松木さんの歌は、そのシステム自体に言及しています。しかも指摘しておいて、俯瞰者になって外側へ行くのではなく、あくまで作品としてシステムの内部者であることを受け入れています。自らの尾に食らいつくウロボロスのような、面白さとむなしさを同時に感じます。しかもその一首の歌に感じるそれが、短歌それ自体が持つ二面性であるかのようにも思えてしまいます。
気にしなくていい プライドを可愛がる頭のなかで ゆっくりしていって
瀬戸夏子さんの「イッツ・ア・スモール・ワールド」。こういう歌は民族的な考え方をするなら、外敵なんでしょうか。短歌をおびやかすと同時に、短歌を鍛えるという意味においても必要な。
あるいは荒川修作、マドリン・ギンズの「perceive A as B (AをBとして知覚せよ)」のような指示をメタレベルを欠いた状態で行ったものとの言い方もできるかも知れません。
ところでメタレベルの指示、つまり「こういう風に読んでください」という直接的な明言が、短歌において野暮ったいものでしかないのは、なぜなのでしょうか? 説明というものが、短歌においてもあまりにも低い地位にいるような気がします。
説明がある、あるいは説明的であることが、歌の力の原動力となっているような短歌は可能か。
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恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
杵のひかり臼のひかり餅のひかり湯気のひかり兎のひかり
穂村弘「手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)」『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』.
5音×6+1音=31音、6音×4+7音=31音
瀬戸夏子「「手紙魔まみ、イッツ・ア・スモー・ワールド」あるいは再び書き換えられた『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』の結末について」『町』3号.
これらの歌を、機械的なまでに強引に韻律を破壊させられながら三十一音の形をとらされた歌と瀬戸さんは評します。そして、そこから「誰のものでもあり」「だれのものでもない」声というタームを導き出し、そのタームによって鮮やかに『まみ』の連作を読み解いてゆく。その読解の見事さは『町』3号を読んでもらうとして(笑)、注目したいのは、「瀬戸さんが数えた」ということです。
二首目はともかくとして、一首目は短歌定型から非常に遠い歌に思えます。
こいびとの/こいびとのこい/びとのこい/びとのこいびと/のこいびとのし
と区切れば一応定型ですが、「のこいびとのし」というリズムを違和感なく口ずさむには、「の」が助詞であることをいったん頭に忘れさせないと、違和感なしにできることではありません。つまり定型を韻律として体感できるようには作られていません。少なくとも私にとっては。
「数える」という行為を行い、それを行ったことを記すということ。つまりこの歌が「31音である」ということを問題にすること。これはつまり、歌と定型の関係性を、体感的なものではなく、観念的なものとして受け入れる(その評価はともかく)ということです。
体感的なものとして、言葉と韻律の「調和/不調和/妙味」を味わうという「快/不快」の生理的感覚だけを、短歌の韻律面において問題とするなら、歌における音数が31音であるかどうかは全く問題にする必要がありません。結果的に31音に近い方が読んでしっくりくるというだけであって。
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死体
たとえば上のような歌が代わりに挿入されていたとした場合、そして数えるという行為を仮に行わなかったとした場合、読者の印象にはもちろん変化はあるでしょう。けれど「定型/破調」という印象の違いではなく、「破調/別の破調」と言う印象の違いでしかないのではないでしょうか。
それを「実は定型だった」と言ってそのことを問題とするのは、31という数字に重要な意味性を感じているからにほかなりません。それこそ前の章で言った民族の話ともつながってくるような。
それは神秘主義的というよりは生理的なものではないかと思いますが、歌を読んだ時に、
- 1そのことに気づき、そこに意味を見出す人
- 2気づくが、「どうでもいいじゃん」と思う人
- 3最初は気づかないが、他人から指摘された結果、意味を見出す人
- 4指摘されても「どうでもいいじゃん」と思う人
- 5気づかないまま一生を終える人
私はまず4であり、瀬戸さんの評を読みながら3に引き寄せられつつも、しかしながらやはり4である、という状態にあるのですが、しかしこんな文章をわざわざ書いているという時点で、「どうでもいい」と言いたいという形で「どうでもよくなくなっている」のですから、31の魔力が作り出す観念的な磁場に囚われていることに違いはありません。