原稿の罫の浮きたる厄日かな 広渡敬雄
句集『ライカ』(ふらんす堂 2009.7)より。
万年筆がなじむ高級な原稿用紙のくっきりとした太い罫。触ってみると実際に線は盛り上がっているのだろう。自分が原稿用紙に向かって何か書いているのか、他人の書いたものを読んでいるのか。季語「厄日」は、その禍々しさとともに、うちに籠っている安らかさも感じさせる。原稿用紙に触った時の満足感――人生の、小さいが、それがなければ生きていけない愉しみのようなものがここにある。
私程度の俳句リテラシーでは、個人句集には全く歯が立たないことも多いが、『ライカ』は読みだすと止まらなかった。
どの句も、かたちに無理がなく、明晰で、それでいて真似できない。(これって、名句の三条件ではないのか。)
『ライカ』の中から、私の好きな句を、掲載順にいくつか引いてみよう。
霧吹いて菊人形のまた一日
郷愁のやうにプールの匂ふ夜
比良暮色はうれん草の茹であがり
焦げ残る雑誌グラビア春の草
朧夜のポスターに犬探偵社
さざなみのやうかなかなの夕暮れは
目にするもの、さまざまな思いを自在に詠んでいて、精神の自由さが感じられる。ただ、自身の職場や仕事を詠ったと思われる句が見当たらなかったのはちょっと不思議な感じがした。句集のあとがきには、3年間、関西に勤務したことが書かれているが、句集を読んだ限りではどういうお仕事をされているのかは、全く推察できない。
何年も俳句を作っていると、積極的な気持はなくても、なんとなく仕事の句を作ってしまうものだ。なにしろ、人間ふつうに働いていれば、毎日の相当部分――場合によっては大部分――の時間を仕事に費やしているわけだから、具体的な業務の内容とまではいかなくても、オフィス風景などを題材にするのは、むしろ自然なことだ。
職場や仕事を読んだ名句は多い。ただ、作り方によっては、とくに私のような事務職の人の場合、同じ境遇の人たちの共感を求めるようなさもしさが現れることがある。
広渡氏が、そういうことを考えられたかどうかはわからないが、意識的に俳句と仕事を峻別されているように思える。いっけん自在に見える氏の俳句の豊かさの背後には、ストイシズムがあるのかもしれない。
角川俳句賞受賞、おめでとうございました。