板のみちふみて林をいできたる原のうへには
天つかげあまねくありて龍胆のつねなる色を今日は悲しむ
たたなはるやまなみなべて音のなく光のしたに秋の赤まつ
二宮冬鳥歌集『壺中詠草』(昭和六一年刊)より
「九重山飯田高原」という題の一連から引いた。姿のいい山を遠望するのは、気持ちのいいものだ。私は高所恐怖症のきらいがあるので、山にはのぼらないが、山を見ると、むやみにそれを絵にかきたくなる。この歌集の頃の作者は、七〇歳前後。「龍胆のつねなる色を今日は悲しむ」とあるのは、古語の「愛(かな)し」の気持ちが極まって、本当に「悲しく」なったのだろう。こういう近代短歌以来の自然詠というのは、誰が作ってもそう変わりばえのするものではないが、こうして一つの格調を持って詠まれると、あらためていいものだと思う。
蠟梅のひらくころより心臓の痛みはじまり紅梅のはな
死にしひと
微かなる虫といへどもちかづきて来たりすなはち遠ざかりたり
作者は心臓を病んでおり、歌集の中には自身の死を思う歌がいくつもある。作者が、常に心がけているもの、それはこの世の「美なるもの」と出会うことである。文字通り「蠟梅」と「紅梅」の間に、私の「心臓の痛み」が挟まれているのである。それを念頭に置いて見ると、故人と対話する歌や、小さな羽虫を詠んだ歌のどちらもが、端的な「美」の表象として立ち現れていることがわかる。
美的な生き方というものは、あるのだろうか。美をもとめる生き方というのは……。二宮冬鳥は、長崎の原爆の被爆者の一人なのだが、声高にそのことを歌うことはしなかった。近年になって全歌集が出たので、興味のある人はそちらを入手することをおすすめする。