溢れむと銀河は凍りゐたりけり 柿本多映
『俳句界』九月号が「俳人都市伝説~あの噂は本当か!?~」という特集を組んでいて、そこに柿本多映のインタビューも載っている。人麻呂の血筋という噂は本当かという話だが、「柿本」は夫方の姓である上、その実家も空襲で焼かれてしまったので、そちらも繋がっているかどうか定かでないということだった。
それはともかくこの句などを見ると、人麻呂を連想されてもあながちおかしくないだけの雄大さがある。
頭上でくりひろげられる「溢れむ」の動と、それをせき止める「凍り」の静のせめぎ合いが、星々の充溢のさまを句に深く彫り込み、それが単なる外の景色ではなく、実存に根を下ろしたものとして描かれている。凍る銀河を見つめる主体は、凍る銀河から見つめ返されてもいるのだ。
荒れ狂う海のような怖ろしい光景がもたらす感動を通常の「美」と区別して「崇高」と呼んだのはカントだが、この「崇高」を味わうには、見る側が安全な位置にいることが必要となる。自分が呑まれそうになったら、感動どころではない。
この句、夜空を覆って凍る銀河は明らかに美感に訴えてくるが、一方でその内外の区別を無化するようなスケールは空恐ろしくもある。柿本多映の句の実存にまで達している感覚は、美と崇高のはざまの領域から句を成しているところからくるのだろう。
これは第二句集『蝶日』(平成元年)所収の句だが、最近出た倉阪鬼一郎『怖い俳句』に収録された
戒名を思ひだしたる紫蘇畑
も同じ句集からである。
倉阪はこの戒名を、身内の物故者の誰彼などではない己の戒名であり、この主体はすでに死んでしまっていると鑑賞する。これは当然そうあるべきだろう。