日めくり詩歌 短歌 さいかち真(2012/09/28)

明かすべき人ひとりなし幽囚の思ひに耐へて配膳を待つ

なほ生きてありて如何なる意義ありや問ひやまずけり夜半の潮騒

朝なさな水()ぎ足して病む者がいのちよろこぶかすみ草の花

あへぎつつ車椅子曳く犬に遭ふ待ちて歩道にしばし見送る

絶対の孤独を生きて逝きしとふ人の跡思ふこのごろ夜ごと

                 今関久義歌集『四天木の浜』(ながらみ書房刊)

 

 歌集の題は、「してぎのはま」と読む。序文、大河原惇行。序文に引かれている歌がどれも良いので、そのままみんな書き写したくなったが、それは本書を手に取る人の楽しみのために残しておきたい。私は、通りすがりに敬老園の先の九十九里浜にたたずむ作者の姿を望見したのにすぎない。
 一首目、幽囚の思いに耐えて配膳を待ち、二首目、なお生きてどのような意義があるのかと問う孤独な思惟から、生死のことを真摯に見届けようとする作者の強い意志を感ずる。
巻末の剣道四段、弓道四段、居合抜き五段、裏千家淡交会の終身師範という履歴が目を引く。作者は、武道と芸道の達者である。そのように、言葉を使って、自然と人生の〈現相〉(「現実」にかわるタームとして用いている)を表現することにおいても、作者は達者であろう。

道入の黒楽見ては涙こぼす茶の湯者左千夫は孤独なりにき
先生がいふ卑しさとは何か何か夜明くる波のけさしづかなり

 ここで言う先生は、小暮政次のことであると、大河原の解説文にある。同郷の先人伊藤左千夫も、作者の師なのである。師のある人は、幸せである。集中には玉城徹への挽歌もある。

「概念よ、君の歌は概念よ」懇々と眼交にして諭されにける

 これは、「歌を作ることについての歌」だが、「概念」のどこが悪いのか、と、ここに働いているドグマのようなものに反発する人もいるだろう。しかし、近現代の短歌史では、「概念」を排することを通して〈現相〉に直接対峙することを企図した人々の系譜が、ずっと続いて来た。そこで目指されているものは何かというと、「写生」と言ってもいいし、「人生」と言ってもいい。それに対して、「概念がいけない」のは、それが「思いこみ」だからである。「思いこみ」をやめたら、普遍性のあるところに近づけるかもしれない。では、その普遍性のあるところのものとは何か。たぶん、人生と文学芸術における「真」である。……こんなもろもろの思惟を、一首の歌で言われたって、わかりっこない、と言う人はあるだろう。仕方がない。歌とは、そうしたものである。
(ちなみに、私は「概念」だから悪い、という立場はとらない。概念だから悪いという立場で作った作品が、概念よりも劣っていることは、しばしばある。それは、この作者にだってある。私はそれをすべて肯定しているわけではない。)

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