血 大江麻衣
鍛冶屋の娘です
マリちゃんマホちゃんマリコちゃんがうらやましいです
種馬、血統、鍛冶屋の娘には文士の血がありません
彼女たちはうまれた時からかがやく血、なのでした
まわりの人も知っているのでしたし、血はいつまでも巡りめぐって、才能を体に行き渡らせてゆきます
彼女たちは最高の一瞬を切り取り最大限に輝かせる能力を持っています
何かの娘か息子でないといけません
海賊王とか死神とか火影も、なーんだ、やっぱりお父さんが、えらい人なのです
友情とか努力とか勝利だっけではもうどうにもならないのです
死ぬほどの大怪我をして
彼女たちが軽いきもちで輸血した血が
入りますように。入りますように
二物を与えるとか三物を与えるというけれど、何も持っていなくて つらい
神様が頑張って傑作を創るから、手抜きもあります
彼女たちがこの日常を切り取れば文化、そうでなければ日記、
誰か救ってくださいますかこの日常を
無くなってしまた労働賛歌を
鍛冶屋の娘に生まれても
鍛冶屋のことはわかりません
字がへたで算数もできません
鍛冶屋の娘でも、詩を書きます
この原稿を書いている今、用事があって山形に軟禁されていて、日めくり詩歌のために実家の本棚にある詩集を何冊か持ってくればよかったのに、持ってこなかったので、どうしようと思った。手元にあるのは森鴎外「渋江抽斎」、古井由吉「聖・栖」、フローベール「ボヴァリー夫人」、保坂和志「生きる歓び」、阿部和重「クエーサーと十三番目の柱」の5冊で、これは駅の近くのTSUTAYAと、古本屋もやってる小さな書店で買ったものだ。今日の朝に読み終えた「ボヴァリー夫人」がすごく面白かった。
そう思っていたら、実家から山形へ移動するときに置いてきたと思っていた大江麻衣「にせもの」がカバンの中にあったのでよかったと思った。これは金子さんが自由詩の時評の方で使ったものを「読んだらいいよ」と言っていたので借りた本だ。金子さんが使っていないところを確認しながら、良いと思った詩を取り上げたい。
この人の詩に関して等身大がどうとか誰かが言っていて、ぼくの身近にいた人もそう言っていたけれど、等身大って誰の等身大なんだろうと思ったので不思議だった。意味が全体に詰まっているこの詩は意味を隠さないところが良いのかもしれない。「見えそうで見えないからいい」みたいなスタンスがある中で盛大に見せ付けられたらすがすがしい。字はどこをどうとっても動かないのがいい。というより、動かせないのを見せ付けられているような感じ。
「入りますように。入りますように」で丸が入るんだと思った。そういえばタメ? をつくる時に点か丸か空白かでいろいろとタメのつくられる長さは変わるような気がする。ぼくはここは点の方が好きだと思ったけれど、前の2行がまたいでここで終わる読み心地に微妙なしこりを感じて楽しかった。実際、書かれてるもしかしたら行分けになってしまいそうな詩を詩にさせてくれるリズムや跳躍が詩のなかに出てくるといいと思う。書いている姿勢のブレなさも上手いと思うし、「彼女たちがこの日常を切り取れば文化、そうでなければ日記、/誰か救ってくださいますかこの日常を」と最後のに2行がとくに跳躍に関していいなと思った。
1行で終わらせて、行をまたがないリズム、改行しないスピード感もあると思う。それが輪をかけて詩の中の雰囲気をつくっている。意味の強さが良い意味で働いてくれる。そうなると書いている人(これは大江さんには重ならない)が自然と浮かんでくるような力強さも感じる。なんていうかこの詩を通して感じるのは、何かしらの思いみたいなものをビートに乗せて書いているように読めてしまう書き手の思い切りの良さ(があるような書かれ方をぼくが感じるという意味で)だと思う。