死んだ少年 高橋睦郎
ぼくは 愛も知らず
怖ろしい幼年時代の頂きから 突然
井戸の暗みに落ちこんだ少年だ
くらい水の手が ぼくのひよわなのどをしめ
つめたさの無数の錐が 押し入って来ては
ぼくの 魚のように濡れた心臓をあやめる
ぼくは すべての内臓で 花のようにふくれ
地下水の表面を 水平にうごいていく
ぼくの股の青くさいつのからは やがて
たよりない芽が生え 重苦しい土を
かぼそい手で 這いのぼっていくだろう
青ざめた顔のような一本の樹が
痛い光の下にそよぐ日が来るだろう
ぼくは 影の部分と同じほど
ぼくの中に 光の部分がほしいのだ
(詩集『薔薇の木 にせの恋人たち』より)
本作が収録された詩集『薔薇の木 にせの恋人たち』は、1959年から1962年にかけての作品で編まれている。当時、作者は二十代の前半。それにふさわしい初々しさがこの作品には漂っている。それは「ぼく」という少年の語り口からだけでなく、少年特有と言っていい青い性が魅惑的にそして痛々しい希望として描かれているところからも窺うことができる。
一方、詩のたたずまいの見事さは若さよりも成熟を感じさせる。神話を彷彿とさせる内容。典雅でイマジネイティブなレトリック。ゆるがない詩の骨格。深い古典の教養が、当時からこの作者の内部で豊かに醸造されていたことの証左と言えるだろう。
「幼年時代の頂きから」転落した少年を、「くらい」ものが締め付ける。「無数の錐が押し入って」くるというのだ。そして「ぼくは すべての内臓が 花のようにふくれ」という美しくもエロティックな表現がなされる。花のようにふくれて、「地下水の表面を 水平にうごいていく」。イメージとしても秀逸だが、ここでの「水平」が、この作品をつらぬく落下と上昇という構造のなかで、ことさら重要だと思う。
落下と上昇。落下することで、より切実に光が希求されるのだ。上昇は「ぼくの股の青くさいつの」から成長する「一本の樹」に象徴される。不幸によるものか、罪によるものか、あるいは思春期の闇によるものか、何らかの理由で「ぼく」は落下した。「井戸の暗み」で自覚されるのは、暗さと冷たさ、自分の内の「影の部分」だ。この冷たい悪夢のような場所から、青い性を自覚して、手掛かりにして少年は「這いのぼっていく」。つまりこの発想はエロスが人間の解放や、神への希求に通じるということだろう。と同時に、転落してしまった「ぼく」には少なくともそうした方法でしか上昇できない、という思いもあるのだ。しかし、当然ではないだろうか。神の光を本当に知るためには、深い闇の自覚が不可欠なのである。