目の奥に吐き気のたまるゆうぐれを歩きおり家につくまで歩く
内山晶太歌集『窓、その他』(六花書林刊)
この感じ、誰しも身に覚えのあるところではないだろうか。一日じゅう、たくさんの印象を受け取めながら街を歩いたり、仕事をしたりして来て、ゆうぐれどきになると、その嫌忌の蓄積が飽和状態になって、「吐き気」を催すほどになってしまうのだという。
たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく
歌集巻頭の歌。読んでからしばらくして、ここで言っている感じが、じんわりと伝わって来る。つまり「私」は、たんぽぽの咲いていた河原のイメージ、そこから受けた情緒的な快さを抱いたまま、夜の自室のドアを開いた、というのである。河原を歩いていた時は、まだ完全に日が暮れていなくて、河原にずっと咲いているたんぽぽの花が見えていたのかもしれない。あるいは、夜道でも、街灯などの光を吸って花だけが浮かんで見えていたのかもしれない。結句の「自室をひらく」という描写はやや大づかみだが、それはこの歌に合っている。
旗を見るようにみているはるかなる麒麟の画像はおおかた光
これは、きっちりと決まった写生の歌である。ドットの集まりで構成された電光パネルのようなものが、向こうの方に見えるのだ。
「疲れた」で検索をするGoogleの画面がかえす白きひかりに
これも、グーグルをうまく使っていて巧みな歌である。
コンビニに買うおにぎりを吟味せりかなしみはただの速度にすぎず
とうふ油あげこんにゃくしらたき漂える夏の夜の夢のなかのデパート
こういう玄人好みの歌がたくさん入っているところが、うれしい。大向こう受けをねらって歌集を作っていない。「かなしみはただの速度にすぎず」という唐突で抽象的な断定も、日常生活の底によどんでいる混沌の中から、それを踏まえて出てきているということが、歌集一冊に目を通してみればわかる。むろん、空振りの歌もないではない。しかし、十分に実験的な意欲の感じられる第一歌集だ。
頭よりシーツかぶりて思えりきほたるぶくろのなかの暮らしを
忘却のこのうえもなき安けさにおつり忘れて歩みはじめつ
一首目は、修辞のつじつまが合いすぎているところと、無意味でばかばかしいところが、うまく釣り合って、もう少しで駄歌になってしまいそうな、一首の理屈っぽさを救っている。これは、たぶん作者の体質(性情)が根っこにあってできている歌だということが、何となく直感的にこちらに伝わるから、むげに公式的な裁断を避けさせるのである。二首目は、もしかして深遠な歌なのかと声調がやや読者を構えさせるから、多少誤解の余地を残している。しかし、ユーモアの歌と読むべきだろう。この人は、性格だけでも十分にやっていけるし、もう少し孤独な美的完成を目指してやっていくこともできると思う。後者の道は、同行者が必要だ。こういう歌が、ふだんの歌会でどんなふうに言われているのか、私は興味を覚える。