呼ぶに似る方ふり向くや岩間よりしたたる水の独り言なる
何とした大夕焼けか落ち水のほそき嗚咽のとどかぬ彼方
さみどりの楓のそよぎいつか止み旅する水のきこえて来るも
えいえんの分水嶺に立ちて見つ幾重山波あかき樹の海
田江岑子歌集『北上山地 夢見さす詩歌』(砂子屋書房刊)
一首めは、山中の湧き水の響きをうたったものである。水音は、声のように聞きなせるものなのだろう。作者は、一九二五年生まれ。現在岩手県盛岡市在住、北上山地出身。これは郷土への愛がはぐくんだ作品群である。八十年代よりむかしの「未来」には、社会的な事象とそれに対する思想を歌うことをもとめ、またリアリズムを奉ずる作者が多かった。そういう短歌結社にありながら、夢見がちな浪漫的な自己の資質をずっと保持して歌いつづけ、今に至っている。歌集には、山や森の光景にむけた初々しい感受性の震えが、年齢を感じさせない至純の調べとして定着されている。
風立つや紅葉いっせいにとびちるを掻きいだきたきかなしみ走る
陽にかわき嵩なす落ち葉掻きちらし何ぞ探せる風かまた風
吹雪けるか白馬駆けるか逃げまくる否追いまくるわからなくなる
山の落ち葉の壮絶さは、古来幾多の詩歌人がその感動を記しとどめようとして来たものである。二首めの「何ぞ探せる」という擬人法は、近代日本文学が、英詩やロシアの小説を輸入しはじめた頃の修辞を思わせる。そういう古風なイギリスの自然詩人のような詩の風韻は、故郷の北上山地を恋いつつすごす北の風土の中から自ずと育まれて来たものだということが、この歌集を読むとわかる。だから、やや平凡な、見慣れた比喩の用いられた歌にも命が吹き込まれていると感ずるのである。
夢に生きる夢見ているか日盛りの畦の水路に浸りいる蛇
歩みながら聴く青嵐のコンサート溢るる喝采山また山よ
しかし、この人の山行は常に一人であるという感じを受ける。あふれる歌の言葉が、豊かな自然との交換のなかで、その孤独を意味あるものとしている。そこに亡き父母や兄弟への思いが溶け出してくる。それは、短歌(和歌)がずっと持ち伝えて来たひとつの姿なのだと言える。
何とした日暮れの早さ鴉鳴くこだまとこだまを真似いる鴉
落ちゆきし夕日をあとに戻りくる犬さみしそうに真っ黒になり
日が落ちたあとの山峪の暗くなるのは早いのだろう。こういうふうに動物をうたった歌は見たことがない。
氷河期の北上山地へさかのぼる翼ならずや彼の山吹雪
水色の母の空見ゆ ついてくる枯れ葉の音にふり返るたび
二首めは、本書に付載の『北上山地』より。そうして私は、長い時間のなかのひとときを永遠と等しいものとして感受するこころを獲得しようとする。自然にむける目は、自ずと挽歌をうたうこころに通じて行くのである。