むかうむきに時計を置けばざまあみろ 時は勝手に流れてゆくさ 岩田正
『レクエルド』(本阿弥書店・1995年)より。
岩田正という歌人の名前を聞くと、ひょうひょうとした歌のイメージを思うのだけれど、世俗の一瞬を鋭く切り取った歌のほうが彼の本当の姿に近いと思う。岩田は、大正13年(1924)生まれで、窪田空穂に師事、昭和21年「まひる野」の創刊に参加する。昭和31年に、歌集『靴音』を発表、その後はおもに歌よりも評論に活躍する。昭和50年『土俗の思想』など。53年妻の馬場あき子と「かりん」を創刊。岩田はどちらかというと評論の人であり、それもまた歌の鋭さに関わってきているのであろう。
掲出歌は「時計といのち」のなかの一首。置き時計なのだろうか、ふだんは文字盤のほか、時を知らせるためにたえず「こちら側」を向いているはずの時計だけれど、作者はむこうむきに置いてみるのである。すると、自分の視界にないところで、文字盤の上に時計の針は回転し、時が勝手に流れていくようだ、という。ここでの行為そのままに読めば、その通りでしかない歌だが、第三句の「ざまあみろ」というあざけりの口語には、時に囚われっぱなしの現代人の、ささやかな反抗ともとれる姿が浮かび上がってくる。
机にそつと置きたる時計確実に時きざみわが生に真向ふ
いささかの遅速ゆるさず秒きざむ時計見てゐてつまらなくなる
時計とはひとをせかせてふと期待持たせてこころくらまするもの
わが時間とり戻したく理髪店鏡にうつる時計みてをり
「確実に時きざみ」「いささかの遅速ゆるさず」-まったく「遊び」のない正確さをもちあわせている時計と作者は「真向」い、「つまらなくなる」というのである。またあるときは急かせたあげく、「こころくらまする」ことさえあるという。作者にとって、正鵠な時制は、たんに生を角張った箱にいれるようなものなのかも知れず、周囲をみてもそうした正鵠さに縛られているひとが居るのみであると認識しているのだ。
せかせかとしている現代を、確かな批評眼でしっかりと見据えているのである。