日めくり詩歌 俳句 林雅樹(2012/11/12)

冬あたたか手押車は雲と親し   奥坂まや

『妣の国』ふらんす堂 2011.6より

この手押車は、街中で用いられるカートのようなもので、作者自身が買い物帰りにでもそれを押しつつ、空を見上げていると云うことなのだろうか。ただ、私はそういう器具のことがよくわからないので、工事現場や農作業で使われる一輪車みたいなものがまず思い浮かぶ。それはいま作者の目の前で、使われているのかもしれないし、松本竣介の絵の片隅に描かれる淋しげなリヤカーのように、置かれている状態かもしれない。

AとBとが親しいという表現を用いた句は、ときどきみかける。(不勉強が祟ってうまい例句が思い出せないので申し訳ないが。)この場合、じっさいには、AとBとに対して作者が、好もしく思っていると云うことが、AB間の親和性として表現されているわけだが、A、Bの組み合わせが論理性を超えて、読者に納得されなければならない。

手押車のイメージは、ゆっくりとした動きと、機械のように音をたてないしずかなものであり、農耕馬牛に通じるのどかさがある。「土と親し」なら当たり前なのだが、ここでは相方が空の雲である。両者の結合は、のどかなかんじがして、雲と手押車と作者が、小春日のあたたかさを共有している。雲と手押車の親和性を、季語が裏づけている。

他にも、

呼び交はすなり夜の雲と水餅と

という句があり、ここでは、雲は水餅と仲良しだ。ポリバケツなどに沈めてある(と云うのは私の実家の情景で、奥坂さんの家はもっと風情のあるものに入れてあるのだろうが。)餅は、静謐で心惹かれるものだが、夜中に雲と交信していたのか。

星の無き夜を待ちをり木耳は
否いなと木耳どもが声挙ぐる
ゆふがほはいつも待ちくたびれてゐる
立春や賢さうなる焼豆腐
らつきようの好色の照かくれなし

擬人法に対して俳人は一般に警戒的な態度であるが、これらの句では、擬人法を超えて、事物が独自の性格を主張している。それは作者の内面の投影に他ならないが、主観的な印象は薄く、普通に写生句に思えるのはなぜだろう。いつもは人間に隠している事物の顔を、作者は見てしまったのだろうか。

写生を極めて対象に没入するなどと云われるが、これらの句では対象を見つめる作者の視点は、たしかにこちら側に残っていて、秘密の顔を見せる事物へのまなざしを強く感じさせる。作者が対象を“見てる感”とでも云おうか。この“見てる感”が、奔放な内容に説得力を与えているのだ。内面を見せつつも、“見てる感”を失わないところに、作者の強さを感じる。

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