ねずみ 村上昭夫
ねずみを苦しめてごらん
そのために世界の半分は苦しむ
ねずみに血を吐かしてごらん
そのために世界の半分は血を吐く
そのようにして
一切のいきものをいじめてごらん
そのために
世界全体はふたつにさける
ふたつにさける世界のために
私はせめて億年ののちの人々に向かって話そう
ねずみは苦しむものだと
ねずみは血をはくものなのだと
一匹のねずみが愛されない限り
世界の半分は
愛されないのだと
詩集『動物哀歌』(一九六七年)より
村上昭夫の『動物哀歌』(1967年)は素晴らしい詩集だ。ここで紹介している詩「ねずみ」も、比較的短い詩にも関わらず、無駄のない言葉でたくさんのことを読者に語りかけてくる。
まず、「ねずみ」という小さな存在と、「世界」という巨大な存在の対比が効いている。そして、「ねずみ」への言及に託して、この世界のあり方に対しての、作者の遣り切れない思いが強く伝わってくる。ここでの「ねずみ」は決して害獣ではなく、弱いもの、虐げられるものの象徴だろう。また、「一匹のねずみが愛されない限り/世界の半分は/愛されないのだと」という最終部に注目すれば、「一匹のねずみ」を「一人の人間」に読み替えてみるのもいいだろう。
あるいは、発話者の存在に注目すれば、「ねずみ」や「世界」をこのように見つめている存在も浮かび上がってくる。彼(発話者)には、世界は「ふたつにさける」ものとしか思えず、ねずみは永劫にちかく血を吐き続けるものとしか思えないのだ。そういう認識しか持ちえない主体がここには存在している。
しかも、「一匹のねずみが愛されない限り/世界の半分は/愛されない」状態とは実に厳しい条件ではないか。むろん、そこにある種の宗教倫理や詩的な誇張があると受け取っていいのだが、それよりもその不可能性を表明していると考えてもいいのかもしれない。作者が抱え込むしかなかったのは、血を吐くほどの不可能性であったとしたら、ここでの「ねずみ」は作者自身の喩ともなるわけで、さらにこの作品は複雑な表情と陰影を帯びていくのである。