赤い橋の手前をくだってと教えられ渡りたかった橋を見ている
山下泉「無限に中ぐらいに」『海の額と夜の頬』
口には二枚の舌がある。それぞれが順番に語り始める。
「その橋を主体はほんとうに渡りたかったのだろうか。
確かに心惹かれるようなところはあったに違いない。
けれどそれなら渡ればよかったのだ。
確かに寄り道にはなったであろう。
けれど少し渡ってみるくらいの時間はあったのではないか。
「教えられ」ということは事前にそのような道順を聞いていたということで、主体はおそらく一人だったのだろうし、時間がなくて渡れなかったというようなニュアンスもない。
これは私の想像だが、結局のところわざわざ渡ってみるほどの橋でもなかったということだ。
そこまで歩くのが面倒だったというのもあるだろうし、それ以上に、決められた道順は守らねばならない、という意識が主体に内在化されていたというのもあるだろう。
わざわざ不合理なルートを取るのはヘンだという意識である。
渡らなくてもいい橋を、何となくという理由だけで渡ってまた引き返してくるというのは傍目を意識するとヘンだろう。
そんなヘンなことはしたくない、という心理的な抵抗が、橋を渡りたいという気持ちに勝ったわけだ。
しかしこの敗北に対し、渡りたいという気持ちが全面的に降伏したわけではない。
渡れなかった橋を見つめるそのまなざし、まだ未練を残している。
押さえつけられた気持ちは、静かに燻っているわけだ。
だからこの歌は、常識的であろうとする意識と、それに反発する不合理な気持ちの対立として読める。
しかしこれは予定調和のものに過ぎない。
未練がましい視線は、「くだってと教えられ」たから起こったものであり、不合理な気持ちの敵意は教えた相手に向けられる。
しかしそれが不当なものであることは、気持ち自身にも分かっている。
親子喧嘩になぞらえればよいだろうか。
子がアレが欲しいと言い、親がダメだという。
この状態だと対立になる。
だから親が第三者を持ち出す。
アレがもらえるようあのおじさんに頼んでみたら、と。
子の甘えは、親との関係性の上で成り立っているものだから、第三者に同じようにはわがままは言えず、子は悔しそうに引き下がる。
もちろん現実の子どもはこんなに甘くはないだろうが、この場合、親も子も同じ主体なのである。
親が子を沈黙させる過程は、予定調和的に行われる」
「一読の印象としては、ただ橋の赤さが際だつ。
渡りたかった橋、渡れなかった橋。
それは遠い記憶のようで、遙か彼方にあるかのようだ。
欲しいものを買ってもらえなかった子どものような、未練がましい目で橋をみている主体。
まるで子どもの頃の回想のようである。
その回想の橋をいまも思い続けている。
どことなくそんな遠さを橋に感じる。
ただそれが赤かったことだけは鮮明で、長い年月を経て、その赤さはますます鮮やかなものとなっているかも知れない。
その何もかも茫漠とした中での、赤さのリアリティ。
初句に「赤」という唯一の色彩の語を配置し、しかも破調にして韻律面でもそれを際だたせたところから、それが立ち上がってくるのだろう」
舌は、どうやらもう一枚あるらしい。
「それにしても、このように語るというのはどういうことなのだろうか。
主体の心理を分析してみせたり、自らの思い浮かべた印象の根拠を歌の作りに見出してみたり。
これは結局何を目的としているのだろう。
第三者がそれを読む時、「成る程」と思う時もあれば、「これは違う」と感ずることもあるだろう。
「成る程」と思えばそれは成功なのだろうか。
ある意味では成功なのだろう。
その文章を読んで読者が面白がったということになるだろうから。
しかし元の歌に対してそれはどうなのだろう。
それが元の歌を読む読者に対してよい働きなのだろうか。
ある意味そうなのかも知れない。
解釈が歌を照らすこともあるだろう。
それが歌を有名にしたなら、書き手の手柄である。
あるいは元々光っている歌なら、余計な解釈があろうがなかろうが、光るはずである。
良くて薬になることはあれど、悪くて毒になることはない。
駄文は駄文で毒にも薬にもならぬのだからそれでよい。
そういうことなのだろうか。
しかし言葉が歌を誘導することが、歌の可能性を狭めてしまうそんなことはありはしまいか。
いかによい読みであっても、「読み」という枠に歌を閉じ込めてしまうこと、印象を言葉に置き換えてしまうこと、認識を固着させてしまうこと、そこに弊害はないか。
それが本当なのかは分からぬが、実際に書いている私の兄弟たちを見ていると、そのような不安がわいてくるのだ。
どうせ毒にも薬にもならぬ駄文ばかりを量産している兄弟たちであろうが、それは役に立たぬばかりか害をすらもたらしてはいないだろうか。それを容認する私も含め、私たちは毒をまき散らしているのではないか。
いや、何よりも私たち自身がその毒に侵されているのではないか。
歌について語ることを繰り返すたびに、語ることを前提に歌をまなざし、語るにふさわしい形でしか歌をまなざすことができないように、だんだんと視野が狭窄していくような、そんな気がするのだ。
まず自分たちが毒に侵され、その毒が感染していくように、読者に広がっていく」