複雑な家系きはまりあらはれしマキシラリアフェルゲンナスナオナオの花
たましひや希求といふ語するすると帆に立てながら若者は言ふ
数学を解くとき息子が聴いてゐるあはあはと澄む「いきものがかり」の歌
琉球弧ふかく浮かべるキンドルのあたらしき白われはつつしむ
米川千嘉子歌集『あやはべる』
短歌をつくり続けていると、事物を観照しようとする心の姿勢が自動的になるというところがある。それは、だんだんに内部がうつろになってゆくような怖さとしてあって、たとえば岡井隆や、今回ここにとりあげている米川千嘉子のようなプロの歌人が、そこのところで表現の内実が空洞化する危険と闘って、新たな局面を切り開こうとしている姿は、フィギュア・スケートのスケーターが危ういジャンプを続けている様子を見ているのとあまり変わりはない。同じたとえで言うと、かつてはウルトラCだったのが、今はΕ難度とか、とてつもないレベルの難度を要求されるようになっている体操競技と、現代短歌の修辞レベルの高度化とは、相似的である。だから、かえって逆に、今度の歌集に多く見える米川の息子をうたった作品を見るとほっとしたりもする。
掲出の歌集巻頭の一首めは、私はさほど興味をそそられない。どうしても二首めや三首めの方が、歌を読んでいるという気がするようだ。二首めは、「するすると帆に立てながら」というところに感心する気持ちと、微妙な違和感が表現されている。三首めは従来通りの行き方の生活詠である。そうして、四首めのような事実の取り込みと、心境の定位とを同致させた歌に、短歌という文芸形式にぴったりのイキの良さを感じる。
国際通り
ウイッグをのせて生まるる詩はあらむ八百の銀河
一首めと二首めは、目のつけどころが無条件におもしろい。三首めは、とっさの機知のおもしろさが光っている。
冬の森だれもをらねば影がをり椿の落つる万華鏡道
若葉光レモンのジュレに落ちるのは永福門院が見てゐたひかり
子の去れば思ふこころに空間の生れてしづかに揺れゐる茅花
歌集の後半には、震災以後の作品が並ぶが、それはここでは引かない。今本を繰ってみて私が心を引かれるのは、上のような歌である。作者にとって明治の浪漫派の歌や伝統和歌は近しいところにあるのであり、そういう心の持ち方ができる人が現代にいるということを、私は心強く感ずる。こんなふうに詩歌を愛する人のために歌集はある。