知らない女に誘われ、舞台で演説、実演 関根悠介
「全滅してみませんか」と
知らない女に誘われ
しらぁぁァッと
横目で女を視姦した
夜と朝の出来損ないの時刻
おれは五百円玉をあわれに思う
――姿勢の良い人間は反抗的だ――
首の数を幾度も数える
横目で女を 穢した
足に水がはねた 穢された
靴下を 嗅がされた
おれは自分のまともさに
辟易しながら鳥を喰う
屍再考
もうどうにもならん衝動だ
とうとう日常にまで入り込んできやがった
これはおれだけの問題じゃない
合衆国沙汰だ
不老不死でありたいと切実に思うと女は言った
うまく笑えなかった
聖アウグスティヌスの如く巧みには笑えなかった
不吉なものを感じる日の夜
不吉な方向指示機に急かされ
おれは知らない女に乗り上がる
仕方がないから 堕落詩の極北を奏で
スピード違反、駐車違反 でイッテ イッテ 入って王手
詩の主体というのはどこにいるのかということを考えていた。詩が短い期間のうちにあまりにも自由を求めすぎてしまったせいか、このへんも考えないといけない。あらゆる話がスタイルで分かれすぎている。場所があって、そこに人や時間があることも、個々に選ばれる要素にまで分解されている。人が出ない小説というのはなかなかない。けれど、語りの位置にとどめるだけで、人がまったく出ない詩なんていくらでもある。少なくとも母体数として、ぼくが言うものの占める割合は詩の方が多いはずだと思う。語り手の視点すら仮構されないものもふつうにある。これってやっぱりおかしいのかな。詩がその内に環境や主体を形成するものもあれば(この詩はそうか?)、主体の影みたいなものだけが書かれるものもある。書き手と語り手がかなり分化されていない詩なのかもしれない。この文を書いた人が明らかに一人でないものや、オリジナルの言葉がひとつもない、元々だれかが書いた言葉だけでつくられた詩だってある(かつて、オリジナルな言葉なんてものがあったのか?)。「詩というものはない。個々に詩があるだけだ」とは言うし、体系的にまとめようとすることの不毛さは、けれど、そうして簡単に斥けてしまっていいものなのか。
なんか、毎回のように同じことを言っているような気がしてアレだなあ、と思う。成長しない。さいきん取り上げた詩のことについて書かないことも増えている。まじめにやっても、頭よくないのがバレてしまってイヤなだけだ、という逃げ道か。
「しらぁぁァッと」ってよく書けたなあ。「合衆国沙汰だ」とか。「堕落詩の極北」というのもいいね。「全滅してみませんか?」で始まる感じもいい。言葉に対する執着があんまりないようにも思えるし、歌詞みたいな連もある。悪ノリしている。見たことのあるフォーマットで、あまり使うことのない語彙が選択されている。新鮮というのは狙って言わなきゃ褒め言葉にはならないし、そこまでそうとも思わないけれど、なんともいえないむずがゆさを感じていい。落ち着いた調子で言葉をかましてくる感じ。「おれは自分のまともさに/辟易しながら鳥を喰う」というのは、音を抜きにすれば改行の位置を変えると、意味は変わらずとも意味合いが変わってくる。
詩が完成した、書き終えたと思う時、そこに何が書き上がっているということなんだろう。書きすぎる、という場合について考えていたけれど、よけいな補強をするあまり、詩がだめになってしまうということについてもいつかに思った。詩が完成するということは、形式においてリズムを整え、内容においてはどこまでを書くべきこととして処理して、どこを書かないこととして切り捨てるか決める、ということなのか。それってどういうことなの? 「詩は書き終えたと思うものではない」という言葉があるけれど、それは詩がどういったものを指すのかで話がちがってくるだろう。個々の詩において、作者の手を離れてなお継続するもの、読み手によって増えていく解釈ということだろうか。でも、どれだけの人が詩を解釈の域まで高めて読んでくれるのか。そもそも、詩を書くために読むのではないあり方で詩を読む人がどれだけいるのかな。考えるとつらい気持ちになった。