苺を煮る 岬多可子
赤い苺を甘く
煮ているのであるが
そんなとき
底のほうからどんどんと
滲み出てきて 崩れていく。
たとえば。
奪ってきたんだ という
とうとつなおもい。
じくじくと 苺は赤い血を吐くが
忸怩たる とはこういうことか。
うつくつと 琺瑯の鍋は音をたてるが
鬱屈した とはこういうことか。
しなかったけれども
かんがえたことというのは
たくさん ある。
形のなくなるまで
って こわいじゃないか。
罪を犯して連れて行かれるひとのこと
あ こういう顔をしているんだ
と思って見ていて。
鍋の わたしの
赤くかがやいている内側を
他言はできない。
それから静かに瓶につめ
蓋を閉め
日付を書いて
春のさなかへ向かう。当分は
だめにならない。
「静かに、毀れている庭」 書肆山田 2011年
思い出す場面がある。義母は料理が苦手で、働き者の義姉を料理上手と言って自慢にしていた。義姉が苺を甘く煮た時は、ジャムまで手作りにしたと嬉しそうに、パンに乗せて義父と一緒に食べていた。小さな苺が崩れず形を保っていたので、「乗せる」感じだったのである。幸福な光景だった。
岬氏の苺は崩れていく。「底の方からどんどんと / 滲み出てきて」。「じくじくと」「赤い血を吐いて」。同種の生きものが小さな群れに固まって、個々の輪郭をなくしていく、というモチーフは詩集中の「兎」にも読める。
夜の飼育小屋で
たくさんの兎がしずかに混じり合っている
声というものがないので
区限ということがない (冒頭)
にじみでていく夜というものが
兎というものの全体なので
生死を数えることはできない (結び)
兎からは夜がにじみ出し、苺からは赤い血のような果汁がにじみ出す。夜の中にあるのは死であり、赤い果肉の中にあるのは罪である。「わたし」はニュース映像で、犯罪者となってしまった人の顔をじっと見る。そして自分の内で赤く輝くばかりの罪のことを考える。実行されなければ罪ではないのか。それとも人の内に生まれた瞬間、罪となるのか。赤は人の原罪の色なのである。
出来上がった苺の砂糖煮を瓶に詰める。長く保つ、ということがこの詩では不穏な意味をはらむ。罪が形をとって晒され続けるからだ。許されることもなく、解決されることもなく。起こした事件について、毎日反省文を書かされる懲役囚のような気持ちにさせられる。
だが、詩人はきっと家庭では良妻賢母に違いない。「苺ジャムって、なんだか人の罪を食べているようね」「え?どうしてだい?」「・・だって甘いんですもの。ふふふ」という感じの可愛い奥様で、愛されているのではないかと私は思う。・・自分で書いて自分がむかついてしまったが、とにかくこの見えない暗部に罪を巧みにくるみこみ、甘く小ぎれいな食物にする手際は、私の世代のある種の夫婦のあり方によく似ていると感じるのである。彼らは優しくて夫婦喧嘩をしない。相手を「不愉快」にすることを言わない。自己愛の尊重が優先である。優しく振る舞うことで、内部に毒を持っていない証明をしている。
そういう人たちの罪をこの詩は暴く。「こわいじゃないか」。
(岡野絵里子)