年忘靴下半分脱ぐ男 榮猿丸
『澤』2010年2月号 澤俳句会
片方脱ぐのではない。ずり下げて、踵のあたりを露出するのである。宴会場が畳だったら、ついついやってしまう行動。あと、会議にサンダル履きで出ているときも。こういう行動に出る背景にはあるのは、退屈に他ならない。いまの状況から抜け出したいのに、そうはいかない、仕方なく欲望を踵に代弁させているのだ。
だが、そんな切ない行動も、俳人のまなざしに捉えられると、滑稽な光景となってしまう。「靴下半分」と中八になっているのは、いっけん雑なように見えるが、詠まれた対象のゆるゆるな性質を強調して効果的である。
ビニル傘ビニル失せたり春の浜
看板の未来図褪せぬ草いきれ
合成樹脂の聖樹ボール紙の天使
(『超新撰21』邑書林 2010年12月)
壊れてしまった安物のビニール傘、挫折した再開発計画の名残、いかにも安直なクリスマスツリー等、猿丸俳句では、チープでもの哀しい事物が頻出するが、靴下半脱ぎ親爺もそのひとつなのである。
それにしても、この作者はよほど男の靴下に関心があるらしく、私も、愛用している縞々の靴下をよくからかわれる。どうせなら俳句にしてほしいものだ。
じつは私も足フェチなのだが、どちらかと云うと女性のストッキングの方が好きである。女性の場合、ストッキングを半分脱ぐ人というのはあまり見かけないが、その代わり、パンプスなどの踵のところを抜いているのをよく見かける。これは退屈というよりたんに足が疲れるせいだろうが(私も、映画や芝居を見る時はいつも靴を脱ぐので、その気持ちよさは分かる。)、この仕草が私は結構好きなのである。立った姿勢で、片足の踵を抜いてくねくねしていたりする人がいると、ついつい見惚れてしまう。
先日、三軒茶屋のコーヒー店で見かけた黒いストッキングの人は、椅子に腰かけて組んだ足の、その上になったほうの足の踵を出して、半脱ぎの靴をぷらんぷらん揺らしていた。膝小僧のあたりはストッキングが広がって肌色が透けているのだが、ふくらはぎを下って行くうちにだんだん黒が濃くなり、足首のあたりで漆黒となる、そのさきに露出した踵が微光を放っている――見ていると妙にどきどきした。大したことではないのは分かっているのだが、なにかすごい露出を目撃したように錯覚させる何かがあったのだ。うう、靴半脱ぎ、こたえられねぇ。
そんなに好きなら俳句にしろよ、と云う話であるが、何年か前に一応作ったことはある。あるのだが、それは「女の靴の脱げやすき(上五忘れた)」と云ういかにもぬるい句であった。対象をいやらしく撫でまわして、大切な思いにリボンをかけて差し出しました的な作りだ。女性に対するへんな幻想が現れているのが気恥ずかしい。どうして、「靴を半分脱ぐ女」と云う単純な表現を思いつかなかったのか、と猿丸俳句を見たときに臍を噛んだのであった。