夕焼けの前までにだれかを 山崎るり子
雲売りがきたよ
いつもの雲売りがきたよ
ああよかった いつもの雲売りがきたよ
やあ 雲売り
今日はどの雲がおすすめかな
あれなんか と雲売りがいう
へりのところのうすねず色に
もうすぐうっすら紅(べに)がさします
もうすぐです
いいね雲売り あれにしよう
ポーズをとった踊り子の
うす衣(ごろも)だけがまだ揺れているね
夕焼けまでに と雲売りがいう
だれかをさそうといい
一人で見るにはさみしい雲です
わかった雲売り そうするよ
夕焼けの前までに
だれかをさそおう
いっしょに雲をながめませんかと
声をかけよう
ああ いい雲だなあ
「雲売りがきたよっ」 2012年 思潮社
本来誰のものでもない雲、儚く消えて何の訳にも立たない雲を売る人と買う人。そんなことはあり得ないと言ってはいけない。詩を売り詩を買う詩人という人種だって現実には存在するのだから。
「いつもの雲売り」が来る。雲の全てを知っていて信頼できる人だ。他の雲売りはたった一つの雲を選び、自分のものにする喜びを理解しない。よく出来てはいるが、ありふれた製品として売り捌こうとするのだ。だから「いつもの雲売り」が来ると「僕」は嬉しい。「雲売りがきたよっ」と声が弾んでしまうくらい。二人で心ゆくまで雲を眺め、美点をみつけて鑑賞する。なんと幸福なひとときだろう。「ああ いい雲だなあ」という言葉にその幸福はあふれている。
だが雲売りはやがて来なくなる。雲日和の美しい日には必ず来ていたのに。「僕」は待ち続けるが、諦める日が来る。雲売りはもう仕事が出来なくなったのだ。「僕」はそれを悟り、仕事を引き継いで自分が雲売りになる決心をする。それが「いつもの雲売り」との密かな約束だったのだから。雲売りとは遠くから訪れる特別な者ではなかった。自分たちの中の一人だったのである。
雲売りの仕事とは一体何だろう。彼が売っているものは、本当は何だろう。
旅立とうとする「僕」に、詩人たちの姿が重なる。今年も残り少なくなって、様々な会合に人が集まる。故丸谷才一氏が、詩人の会は長いと言ったそうだが、その通りに、高い会費を払い、詩人たちは今夜も集まってしゃべっている。雲の美しさについて語り合い、旅に出る前の、束の間の幸福と休息を分かち合っているのだ。
山崎るり子氏のおかげでそんなことがわかったけれど、氏のことを書く余裕がなくなった。でも、すぐ次の作を書かれるだろうから、その時にしよう。それまで、あの美しい雲のへりか紅色になるところを私も眺めていよう。